里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

〈新美貴資の「めぐる。(26)」〉経験から答えを導く 炭焼うなぎ「喜多川」を経営する 北川宗彦さん

〈『日本養殖新聞』2014年7月15日号掲載、2020年4月15日加筆修正〉

三重県の北勢地域にあって、人口31万人を抱える県内最大の工業都市四日市。臨海部は、高層に煙突がそびえ、広大な工業地帯がどこまでも続く。石油化学コンビナートから近いJR「四日市駅」を降り、中小企業の工場や倉庫が立ち並ぶ街のなかをゆっくりと歩く。金属を研磨したり切断したりする耳をつんざく音が聞こえ、荷を運ぶ車両がいそがしく行き交う駅の周辺をしばらく進むと、清涼感あふれる和の空気に包まれた、落ち着きのある建物があらわれる。

平成14年よりこの地で営業するウナギ専門店「喜多川」。競合店がひしめく、知る人ぞ知るウナギの激戦区である四日市にあって、連日多くの客を集める繁盛店だ。ウナギを焼くのは、北川宗彦さん(42)。接客を担当する父母らと仲よく店を営む。

名物の「ひつまぶし」は、むらなく均一に焼きあげられたウナギのさくっとした食感が魅力。炭焼きの独特のこうばしい香りが鼻腔をぬけ、ウナギのうまみが口のなかいっぱいに広がる。蒲焼きの風味をいかす繊細な味わいの出汁や、刺激のやわらかい上質なワサビ、さっぱりとした自家製の漬物など、一つひとつに客をもてなすつくり手の思いが宿る。

扱うウナギは、県内木曽岬町や、隣接する愛知県弥富市で養殖されているブランド「木曽三川うなぎ」。タレは、修業先からゆずりうけたものを創業から継ぎ足して使う。木炭は、火勢が安定して、持ちがよいという土佐産を使い続ける。店内の調理場を見せてもらう。炭火が煌々と輝き、数分いただけで意識が遠のきそうな灼熱のなか、北川さんは無駄のない動きで、焼き台のうえに置かれたウナギの表裏を巧みにかえし、次々と焼きあげていく。長年の修業でつちかった経験と勘を信じ、もてる技術のすべてを注いで最高の一品をつくる。

四日市で生まれ育った北川さん。地元の高校を卒業後、愛知・名古屋にある栄養士専門学校に入学し、飲食業で生きる道を模索する。専門学校を卒業した後は三重県内にもどり、津の和食店に入店。このときにウナギと出会い、将来は蒲焼き店を開こうと決意する。津、桑名、名古屋の三つのウナギ店で修業をかさね、30歳のときに念願だった自分の店を地元にもつ。

「教科書があって、ないのが飲食の世界」という北川さん。ウナギの調理には、「修業したそれぞれの店のよい部分を取り入れている」と語る。なかでも、もっとも影響を受け、そのスタイルを踏襲しているのが、最後の修業先となった名古屋の名店「うな富士」だ。「手を抜かない。おいしいものをつくれば、お客は必ず来る」。ここで身につけた味と技が、店を開く際に大きな自信となり、背中を後押しした。「うな富士」で働き始めた2年目の丑の日に、300匹を超えるウナギを扱ったことも、忘れることのできない思い出の一つ。多いときには、一日500人以上の客を相手に、仕込みから盛り付けまでのすべてを一人で対応したという。

「正しい答えがないなか、これが正しいと思ってやっている。地焼きはシンプルだから難しい。ウナギも一匹ずつ異なるし、串の本数や打ち方も、職人が百人いれば百人違う。だから面白い」。職人の個性が、その店独自の味をつくり、客に特別な感動を送り届ける。「お客がおいしいと言ってくれる、その一言のためにがんばっているんです」。さらなる味の向上を図ろうと、日々の研究にも余念がない。

近年は資源問題で大きく揺れるウナギ業界だが、「業界全体がお客のほうをもっと向かないといけない。50年、100年後もウナギが食べられるよう考え、行動していかないと」。資源保護を含めた環境保全の重要性を訴え、完全養殖の実現に期待をよせる。

f:id:takashi213:20200226141815j:plain

f:id:takashi213:20200228150958j:plain