里山川海を歩くライターの活動記録

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【新美貴資の「めぐる。〈106〉」】都会の源流を探して 忘れられた川をめぐる

《『日本養殖新聞』2021年4月15日号寄稿》

どこの町にもあるのではないか。ひっそりと静かに流れている小さな川やどぶが。私が暮らす所の近くにも、実はある。

名前のわからない川(私は川と捉えている)は、愛知県の名古屋市長久手市の境のあたりを南北に流れている。庄内川水系香流川(かなれがわ)につながる鴨田川に注いでいる。その全長は約1.5キロ。20分くらいあれば、河口から上流の最も奥まで歩くことができる。川幅は、もっとも大きなところで2メートルもないくらい。三面はコンクリートで固められ、源流域と流路の一部は暗渠(あんきょ)になっている。

この流れの源に向かって、長久手市内の鴨田川との合流点から、ゆるやかな傾斜の坂を上る。団地や民家が密集する先には、地下鉄の車両が並ぶ広大な名古屋市交通局の藤が丘工場があり、川はその東側に沿って流れて来ている。

目で確認できる川筋は、工場敷地の東南端のところまで。そこから先は、地中の排水溝へと消えていた。

この川の下流から上流まで、もう何度も歩いている。多くの所は水深がほとんどなく、水の中で動く生き物の姿は、いつどこを探しても見つからない。

川の名前について、行政や郷土史などの記録をいろいろ調べてみたが、どこにも載っていない。その後、長久手市役所で尋ねてみたところ「塚田川」と呼ばれていることがわかった。藤が丘工場を挟んだ右岸は「塚田」という地名であり、由来となったのであろう。

長久手町史 資料編一 近世村絵図・地図集』に掲載されている『絵図八 長久手村 年不詳』には、塚田川と思われる川がはっきりと描かれている。同書では、この絵図が江戸時代の「元文」から「寛政」(1736~1801年)の間に作成されたものであると推定している。200年以上も前のことなど全くわからないのに、その当時と今の風景が頭の中でオーバーラップし、胸の鼓動が高鳴った。

昔、塚田川が流れるあたりは、まわりより土地が低くて水が集まり、沢のようになったという。そして、川の上流には池があったと市役所の人から聞いた。

塚田より南の、川の源流域と考えられるあたりには「作田」という地名が残っており、このあたりに田んぼが広がっていた様子が想像できる。

大きな河川に恵まれなかった村では、渇水期に備えて水の確保に力を入れた。村内には、たくさんの雨池があり、「井道」と呼ばれる用水路があちこちを走っていた。大切に溜め、利用された水が、塚田川に集まり流れていたのだろう。村の川や池、用水路にはウナギなどの魚介がいて、農民の貴重なタンパク源になっていた可能性がある。

現在の塚田川の水源を探そうと、作田の住宅街のなかを流れるどぶの水をさかのぼってみたが、最も上流の排水溝に潜る地点から150メートルほど行った所で涸れていた。どぶの水は、周囲の民家から出ていた排水のようであった。

昔の眺望は消え、人びとの暮らしは大きく変わったが、川は今も残り生きている。

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住宅が密集するなかを流れる塚田川

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