里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

【新美貴資の「めぐる。(131)」】勇気と希望を灯す 大切にしたい言葉

〈『日本養殖新聞』2023年5月10日号寄稿〉

4月で50歳になった。人生は第三コーナーを回っている。ふと思う。ゴールまでにあとどれくらい文章が書けるのだろう。なにをどのように伝え、残すことができるのかと。

経年による心身の変化を実感するうちに、言葉の存在が私の中で大きくなっている。私たちは毎日たくさんの言葉を発し、受けている。喜び、怒り、悲しみ。言葉は感情を乗せて増幅する。自分の出した言葉が相手にどう響いているのか。伝えることの難しさに悩み、後になって悔やむこともある。理不尽な言葉を浴び、落ち込むこともあった。不用意な発言で相手を不快にさせてしまったこともある。人々に勇気と希望を灯す言葉は、暴力にもなる。言葉が持つ力の大きさに無自覚でいてはいけないのだ。

大学を卒業し、東京での水産業界紙記者を経て、名古屋でフリーライターとして活動を続けてきた。この30年近くの間に多くの人と出会い、取材を通して言葉と向き合ってきた。

政治家の発した、忘れることのできない言葉がある。10年くらい前にある県で魚料理を食べる催しがあり、参加者のなかに一人の地方議員がいた。みなで歓談するなか、その人の口から出たのが「助けてもらう前に自分の力で立ち上がれ」というような言葉だった。

この言葉を聞いた瞬間、全身の血液が逆流し、沸騰するかのような怒りを覚えた。同時に、弱肉強食の新自由主義を推進していた当時の政権と重なり、人間を見ない想像力を欠いた思考が地方の政治にまで及んでいることに恐怖を感じた。

誰にでも、その人なりの正義や立場はあると思う。だとしても、このような発想から幸せは生まれない。

「飯食う以上の魚や貝は捕るなよ。そやったら孫やひ孫の代まで漁師は食っていける」。

私が尊敬する、ある漁村の指導者の言葉である。この方はもう亡くなってしまったが、その精神は今も浜に生きているはずである。

この漁村では、資源を守るために操業の日数や時間、漁獲量を自主的に定めている。そこでは、老いて十分に働けなくなった漁師に、他の漁師が漁獲物を分け与えるという話も聞いた。

漁業と漁村の歴史は津々浦々で連綿と続いてきた。職住が一体となって営まれている沿岸漁業は、その地で生きるための生業であり、この価値を経済的な側面だけで推し量ることはできない。今の自分だけに利益があればよしとする刹那的な価値観とは真逆なのだ。対照的な二つの言葉に、この国の混沌とした状況が表れているような気がした。

多くの人に助けられて私の今がある。もし見放されていたら、とうの昔に死んでいただろう。心の中に宝物としてしまっている言葉がある。

「新美さんはそのままでいいんです」。

執筆しているある媒体の編集者が言ってくれた。上手く生きることができない私。苦しみ、悩み、迷い。重たかった胸中が、この一言で楽になり軽くなった。

思いのこもった言語によって人は磨かれていく。交わす言葉を大切に、残りの人生を生きていきたい。