里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

新美貴資の「めぐる。〈142 〉」豊かな伊勢湾を取り戻せるか シンポ「海と川」に参加して

〈『日本養殖新聞』2024年4月15日号寄稿〉

伊勢湾と長良川が抱えている問題について考えるシンポジウム「海と川」が3月31日、岐阜市内であった。長良川市民学習会など約30団体からなる、よみがえれ長良川実行委員会が主催し、市民ら約100人が参加した。同委員会は、長良川河口堰の開門調査を求めて活動している。

シンポジウムでは、海の博物館館長である平賀大蔵氏が「今の伊勢湾」と題して講演し、長良川漁師である平工顕太郎氏が「長良川との暮らし」について報告した。私も報告者の一人として招かれ「伊勢湾の水産業をめぐって」と題して発表し、討論にも参加した。

報告では、これまでに撮影した伊勢湾の漁港の風景、漁や魚市場の様子、当地で作られた魚料理や水産加工品などの写真を紹介し、参加者に見てもらった。

また、伊勢湾の海の祭り、ウミガメの信仰、漁業者による資源管理、海ごみ、環境異変などにも触れた。取材で記憶に残った「飯食う以上の魚は捕るな」「木曽三川からの栄養がカキを育てる」「日本人の魚の食べ方が変わってしまった」などの漁師の言葉もあげた。

こうした写真や言葉を通して伝えたかったのは、食べることや水の循環を通して、私たちと海はつながっているということ。そして、多くの人びとが海と生きており、そこにはさまざまな伝統や文化があるということである。

伊勢湾の漁業をめぐる状況は、さらに厳しさを増している。それでも、各地では多様な漁業が行われ、多種な魚介が獲られている。この海には、宝となる幸がまだ多く残されている。

経済を一途に発展させることが国民の幸せであると妄信し、そうした空気への依存から脱却できないまま、開発によって海は汚され、藻場や干潟は失われ、川は窒息した。その結果、棲みかを奪われた多くの生き物が姿を消し、海も川も枯れてしまった。

河口堰やダムによって海に注ぐ水量や水質が変わり、伊勢湾は栄養の乏しい貧しい海になった。海や川の生き物が減少した背景には、陸域で使われている農薬などの化学物質が影響しているとの指摘もある。漁業就業者は年々減っている。漁師のいなくなった海をいったい誰が守るのか。

私は、シンポジウムで伊勢湾を再生するためにできることとして、参加者にこう話した。海のことを最もよくわかっているのは漁業者である。その声に耳を傾けて応援してほしい。そのためには、地元で獲れた海産物を食べて買い支えることが大切であると。

森と川と海のつながりを理解すれば、内湾の海で起きている異変の多くがわかってくるだろう。今まで連綿と続いてきた生き物の営みや人間と魚の関係を絶やし、伊勢湾を死んだ海にしてしまってよいはずがない。この流域の環境を守ることは、私たちの豊かな暮らしを持続させていくうえで欠かせないのである。

海や川からの警告を真摯に受け取り、生き物のあげる声に耳をすませたい。私たちは、自然から学ぶ謙虚な姿勢を忘れてはならない。

岐阜市で開かれたシンポジウム「海と川」に報告者として参加しました

2024年3月31日、岐阜市内であったよみがえれ長良川実行委員会によるシンポジウム「海と川」に参加してきました。そのなかで「伊勢湾の水産業をめぐって」と題して報告し、その後の討論にも加わらせてもらいました。
報告では、これまでに伊勢湾の各地の漁港を訪れ、撮影した写真を紹介しました。私たちと海はつながっているということ。多くの人びとが海と生き、そこには様々な伝統や文化があること。漁業をめぐる環境はさらに厳しさを増していますが、そのなかで懸命に生きる暮らしがあることを来場した皆さんに知っていただきたかったです。
 私は研究者でも漁業者でもありません。わからないことだらけです。だからこそ見えてくるものが、ひょっとしたらあるのかもしれません。専門的な知識はなにもありませんし、うまくかつ正確にしゃべることができたか自信はありませんが、参加した方々に何か伝わり、残るものがあればうれしいです。
シンポジウムの模様は、4月1日の中日新聞岐阜新聞に掲載されました。
中日新聞長良川と伊勢湾の環境や漁業議論 岐阜でシンポジウム『海と川』開催」
岐阜新聞「ヘドロ堆積『伊勢湾は瀕死の状態』貧栄養化で漁獲量減少 岐阜市長良川との関係考えるシンポ」
 

新美貴資の「めぐる。〈141〉」手で作るということ 心に残る味の記憶

〈『日本養殖新聞』2024年3月15日号寄稿〉

「気持ちがイライラしていると作る料理がしょっぱくなる」。昔、西洋料理のシェフから聞いた言葉だ。

料理には精神が宿る。こうしたことは、作る側だけでなく食べる側にもいえるのではないか。仕事の納期に追われていたり、大事な商談を控えていたりして気持ちに余裕のない時に、どんなに手の込んだ料理を出されてもゆっくり味わうどころではないだろう。

感情のある人間が作り、食べるのだから、料理は数字の科学だけでは測れない。心の持ち方に左右される部分は必ずあり、それが料理の味を引き立てることもあれば、落としてしまうこともある。

近い将来、人工知能を備えたロボットがウナギを完璧に近い形で調理する時代が来るかもしれない。しかし、どんなに高度な製法で仕上げたとしても、口にするのが人間である以上、人によって評価はまちまちで、また食べる時の心境によっても味わいは大きく変わるのではないか。

食べるということは、生命をつなぐ根源的な活動であるが、それだけではない。作る人と食べる人の心を介したやりとりのようなものがそこにはある。

作る者は、食べる人のことを想い、食べる者は作る人のことを想う。食べることを通して様々な感情が交錯する。その時に五感に刻まれた記憶は、忘れられない味とともに残り、生き続けるのである。

岡本太郎がこのようなことを書いている。「手で作るというのは、実は手先ではなく、心で作るのだ。生活の中で、自分で情熱をそこにつぎ込んで、ものを作る。楽しみ、解放感、そして何か冒険、つまり、うまくいかないのではないか、失敗するかもしれない、等々いささかの不安をのり越えながら作る。そこに生きている夢、生活感のドラマがこめられている。心が参加して、なまなましく働いていることが手づくりの本質だと言いたい」(『自分の中に毒を持て』)。

母が作ってくれたカレーライスの味を思い出した。私は生まれつき虚弱な体質で小食でもあったから、母はいつもそのことを気にかけていた。でも、カレーライスの時は違った。一心に食べる私の様子を、あの人はうれしそうに台所から眺めてくれていたような気がする。

母を亡くしてから、学校帰りに父がよく作ってくれた焼きそばの味も覚えている。家族が揃って食卓を囲み、焼肉や手巻きずしを食べたこともあった。遠い昔の懐かしい光景である。

最近、昭和の戦後のウナギの歴史が知りたくなって当時の新聞を調べている。終戦直後は食糧難で、蒲焼きはめったに食べることのできないごちそうだったはずである。ウナギは、飽食の現代とは異なる希少な食べ物であったから、作る職人は生きている喜びをかみしめ、人びとは未来を希望し味わったのではないか。

うれしい時もかなしい時もくやしい時も。作り食べるという行為は、生きる中心にある。手作りの味は、その人の中に残り続ける。心のこもった料理は、作る人も食べる人も幸せにする。