里山川海を歩くライターの活動記録

いろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

【新美貴資の「めぐる。(172)」】人間は不完全な存在 「経験知」を尊重する

(『日本養殖新聞』2026年10月15日号寄稿)

先月、名古屋はかつてない記録的な豪雨に見舞われた。8日午後、強い雨をもたらす線状降水帯が発生する。大雨によって都心部は冠水して交通機関が止まり、市内は大混乱に陥った。

豪雨は、わたしの暮らす名東区にも被害をもたらした。区内を流れる植田川では、大雨によって一部で越流が発生して宅地に氾濫した他、のり面の一ケ所が崩れた。この川は、ふだんはわずかな流量の三面をコンクリートで固められた小さな都市河川である。このような川が猛威をふるうとは、付近の住民はだれも想像しえなかっただろう。

いま、気候変動が世界の各地に厄災をもたらしている。現代人はこれを「異常」と見るが、長い地球の歴史からすれば、けっして特別なことではない。近年の大雨や猛暑に、人間の活動がどこまで影響をおよぼしているのかわからないが、この星で生きていく以上、わたしたちは自然環境の変化から逃れられない。

自然と対峙し、支配しようとしてきた近代からの価値観をほどき、それ以前の人類が持っていたであろう謙虚な「共存」の精神を見直し、立ち返るときに来ているのではないか。

人間が生み出した科学を絶対視し、過信するのは危ういのかもしれない。なぜなら人間は不完全な存在であるから。「自然はわからない」という前提のうえに立ってものごとを考える、真摯な態度を持っておきたい。このことは、防災についても言えるだろうし、漁業の資源管理にも当てはまる。

たとえば、沿岸のある魚の資源量を予測し、それに合わせて漁獲量を規制する。このことは立派な取り組みだが、こうした数値は人間がいまわかっている範囲の中において机上で算出された、推定の数字でしかない。

もちろん、このような資源管理の方策を否定するわけではない。科学的な手法によって導きだされた数値は、資源を守るうえでの重要な判断材料になるし、ある一定の傾向を示しているのは間違いないだろう。しかし、そうした数字を操る人間は、しばしば過ちを犯す。文明は、その発展の過程において、科学以外の大切なものを多く打ち捨ててきたのではないか。

沿岸漁業は、人類の原初的な営みとして太古より持続してきた。海のことを一番よく理解しているのは、現場で働く漁業者である。その浜人たちが受け継いできた「経験知」を尊重し、研究によって得られた科学などの知見とうまく組み合わせて施策を講じていくことが望ましいと考える。

現場を知悉しない、中央の上から目線による科学的な「専門知」だけでは、地域の実状をとらえることは難しい。今後、自然環境の変化はますます大きくなり、わたしたちの想定を超える事態が頻発するだろう。あらゆる知見を集めた「総合知」が重要になってくる。

防災においても沿岸漁業の資源管理においても、主体となるのは地元の住民や漁業者である。その地において長年にわたり蓄積されてきた「英知」を守って生かす、民主的な意志を持った自主的かつ自治的な活動の力をわたしは信じたい。

【新美貴資の「めぐる。(171)」】名古屋シンポから考える ウナギのメッセージを聞く

(『日本養殖新聞』2026年9月15日号寄稿)

本紙ですでに報じているが、今年の5月17日に「森里海を結ぶフォーラム」の主催による「ウナギの想いを探る名古屋シンポジウム」が開かれた。この催しの中で特に印象に残った内容について振り返り、思ったことを書いてみたい。

京都大学名誉教授である同フォーラムの田中克代表は、開会にあたり以下のようなことを話した。

ニホンウナギなど世界のウナギの資源量は激減している。海に生まれて森里川をつなぐ身近な生き物であるウナギは、我々と共に生き、未来を拓くパートナーである。ウナギからのメッセージを聞き取れるかどうかが今問われている。

以上のようなことを田中代表は挨拶で伝えた。豊かな森がいのちを育む川や海をつくる。ウナギはそうしたことをわたしたちに伝えるメッセンジャーである。

近代に入ってから、人間は自然を収奪し、環境を壊すことを止められないでいる。われわれは、何ものかによって生かされているという先人が持っていた「畏怖」の感性を失い、いつしか傲慢になってしまった。

そこには、自然を支配の対象とする人間の思い上がりがある。資本主義というきわめて狭く短い視野から海や川をとらえ、利益を生む特定の生き物だけを管理しようとする試みは、歴史や死者への冒涜ではないか。

京都大学大学院の三田村啓理教授の「ニホンウナギの行動・生態を探るバイオロギング」についての講演は興味深かった。「バイオロギング」とは、魚に小型の発信機を取り付けて行動を追跡する方法である。

三田村教授が福島県の松川浦という汽水湖で行った研究によると、養殖ウナギは放流後、二カ月くらいでデータが取れなくなり、鳥に食べられた可能性があるという。このことから人の手で育てられた養殖ウナギは、自然の環境では長く生き残れない可能性が見えてきたと指摘している。

国内の河川や湖沼で放流されているウナギのほとんどは、養殖場で育てられたものであろう。養殖ウナギは警戒心が弱くて容易に捕食されてしまうのだとしたら、こうした放流が個体数の増加に十分な効果があるのか疑わしい。これまでのウナギの放流のあり方に一石を投じる報告である。

児童文学作家の阿部夏丸氏は「ウナギってすごい生き物!ウナギと楽しく遊ぶ」と題して発表した。そのなかで語られた、絶滅危惧種といわれるウナギが案外どこにでもいるという話に気持ちが高まった。

わたしの暮らす近くを流れる小さな都市河川にも、ウナギはいると思う。自然はそんなに弱くはない。この地球上では、人類よりもウナギのほうが長く生存してきた先輩である。だから、ウナギのほうが人間よりも賢くて逞しく、したたかなのかもしれない。

水辺を歩き、先人が遺した言葉を聴いてウナギの想いを探りたい。ウナギの発する声に耳をすませたら、自然との関係を修復する道が見えてくるかもしれない。過去を引き受けて未来へと託す。そのために今できることはなにか、自らに問い続けたいと思う。

【新美貴資の「めぐる。(170)」】土用の丑の日に考える ウナギの持続可能な利用

〈『日本養殖新聞』2026年8月25日号寄稿〉

土用の丑の日の夕方、近所にあるスーパーをのぞいたら、多くのウナギの蒲焼が売られていた。閉店までの時間を考えると、少なくない量の商品が売れ残ったと思われる。今夏のこの一日で、いったいどれくらいの量の加工されたウナギがこの国で売れ残り、最終的に廃棄にまわされたのか、ずっと気になっている。

もしウナギが大量に廃棄されているのだとしたら、このような売り方は、水産資源の持続可能な利用に合致しているといえるのか、疑問がわいてくる。昨今のウナギ資源をめぐる国際的な情勢をかんがみて思う。土用の丑の日にウナギを食べるという行為は、江戸時代から連綿と続いてきた尊い慣習なのかもしれないが、現代におけるその消費の規模は、地球環境の許す範囲を大きく超えてしまっているのではないか、と。

昨年の11月から12月にかけて開かれたワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)の締約国会議で、欧州連合(EU)などがウナギ全種を国際取引の規制対象とする提案を行ったのは記憶に新しい。提案は大差で否決されたが、EUなどがこのような提案に踏み切ったのは、ニホンウナギとアメリカウナギの個体数が大幅に減少していると主張したからであったことを忘れてはならない。

現代においてウナギはグローバルな商材である。日本は世界で有数のウナギ消費国であり、海外からの輸入に多くを依存している。ウナギをどのように消費しているかについて、わたしたちは世界からつねに見られているという意識を持っておくべきだろう。

調理済みの食べ物は、消費期限内に売れなければ廃棄されてしまう。スーパーやコンビニなどでは、事前の予約によるウナギの販売を行うところも見られたが、それでも季節にあわせた特売は、過去に大量の廃棄が報じられた節分の恵方巻のように多くの無駄を生みやすい。結局、大量の消費をあてこむことは、大量の廃棄を生んでしまうのである。

例えば、注文を受けて提供するウナギ専門店のような旧来からの商いであれば、その日に調理する量を事前に計画して無理なく売り切ることができるので、廃棄されるウナギは格段に少ないはずである。一方で、限りある資源を元手に売上至上主義をとろうとする商売に対して、わたしは危うさを覚える。「持続」を考慮に入れない刹那的な経営は、「成長」や「拡大」を貪欲に求める競争社会を加速させ、環境を破壊するからだ。

金儲けを最優先に掲げる資本主義の世の中にあって、食と環境の問題にどう対応すればよいのか、今のわたしには明快な解を示すことができない。一つ言えるとすれば、食べ物の廃棄もわたしたち人間がつくりだした問題であり、一人ひとりが大人になって現実を知り、考え、行動に移していかない限り何も変わらないだろうということである。

二年後にはまたワシントン条約会議が開かれる。わたしたちは、ウナギの持続可能な利用に向けて、つねに漸進を図ろうとする努力を怠ってはならない。