里山川海を歩くライターの活動記録

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新美貴資の「めぐる。〈141〉」手で作るということ 心に残る味の記憶

〈『日本養殖新聞』2024年3月15日号寄稿〉

「気持ちがイライラしていると作る料理がしょっぱくなる」。昔、西洋料理のシェフから聞いた言葉だ。

料理には精神が宿る。こうしたことは、作る側だけでなく食べる側にもいえるのではないか。仕事の納期に追われていたり、大事な商談を控えていたりして気持ちに余裕のない時に、どんなに手の込んだ料理を出されてもゆっくり味わうどころではないだろう。

感情のある人間が作り、食べるのだから、料理は数字の科学だけでは測れない。心の持ち方に左右される部分は必ずあり、それが料理の味を引き立てることもあれば、落としてしまうこともある。

近い将来、人工知能を備えたロボットがウナギを完璧に近い形で調理する時代が来るかもしれない。しかし、どんなに高度な製法で仕上げたとしても、口にするのが人間である以上、人によって評価はまちまちで、また食べる時の心境によっても味わいは大きく変わるのではないか。

食べるということは、生命をつなぐ根源的な活動であるが、それだけではない。作る人と食べる人の心を介したやりとりのようなものがそこにはある。

作る者は、食べる人のことを想い、食べる者は作る人のことを想う。食べることを通して様々な感情が交錯する。その時に五感に刻まれた記憶は、忘れられない味とともに残り、生き続けるのである。

岡本太郎がこのようなことを書いている。「手で作るというのは、実は手先ではなく、心で作るのだ。生活の中で、自分で情熱をそこにつぎ込んで、ものを作る。楽しみ、解放感、そして何か冒険、つまり、うまくいかないのではないか、失敗するかもしれない、等々いささかの不安をのり越えながら作る。そこに生きている夢、生活感のドラマがこめられている。心が参加して、なまなましく働いていることが手づくりの本質だと言いたい」(『自分の中に毒を持て』)。

母が作ってくれたカレーライスの味を思い出した。私は生まれつき虚弱な体質で小食でもあったから、母はいつもそのことを気にかけていた。でも、カレーライスの時は違った。一心に食べる私の様子を、あの人はうれしそうに台所から眺めてくれていたような気がする。

母を亡くしてから、学校帰りに父がよく作ってくれた焼きそばの味も覚えている。家族が揃って食卓を囲み、焼肉や手巻きずしを食べたこともあった。遠い昔の懐かしい光景である。

最近、昭和の戦後のウナギの歴史が知りたくなって当時の新聞を調べている。終戦直後は食糧難で、蒲焼きはめったに食べることのできないごちそうだったはずである。ウナギは、飽食の現代とは異なる希少な食べ物であったから、作る職人は生きている喜びをかみしめ、人びとは未来を希望し味わったのではないか。

うれしい時もかなしい時もくやしい時も。作り食べるという行為は、生きる中心にある。手作りの味は、その人の中に残り続ける。心のこもった料理は、作る人も食べる人も幸せにする。