〈『日本養殖新聞』2024年8月25日号寄稿〉
いつからだろう、下を向いて歩くようになったのは。コロナ禍で世の中が暗たんとし、不安に押しつぶされそうになっていた頃、近所をよく散歩していた。沈みがちな気分に合わせるかのように目線も足元に下りてしまい、空を見上げるのがなんだかこわかった。
空のペットボトル、たばこの吸い殻、コンビニのビニール袋、落とし物のハンカチ…。歩く道にはいつも発見がある。そうした中で道端に根を伸ばすいろんな草が目に入ってきて、毎日意識するようになった。
あの騒動はいったい何だったのだろう。この地球で人間だけがわめいている。毎日敗者をつくり、数字の変化に一喜一憂する経済活動とは無縁な世界でたんたんと暮らしているような雑草(雑草といってもその一つひとつには名前があるので、「雑」という言葉はあまり使いたくないが)を眺めていると、気持ちが落ち着いて精神の安静を保つことができた。
「強い」「大きい」「速い」ことをよしとする世の中の風潮に疑問を感じている。ここでいっているのは、生産性を優先する都市の工業的な価値観である。こうしたものの支配が進むほど、人びとの格差は開き、分断は深くなっていく。絶えず成長を強いる競争社会からは、他人をおもんぱかる余裕が失われ、利己的な空気がまちを覆っている。行き着く先には、だれも幸せになれない世界が待っているような気がしてならない。
では、「弱い」「小さい」「遅い」ことはだめなのだろうか。そうではない。こうしたものの中にこそ、これからの時代を生き抜く、そして人間の幸せとは何かについて考える手がかりがあるのではないか。
稲垣栄洋著『雑草はなぜそこに生えているのか』によると、雑草はとても弱い。光と土を奪い合う植物の激しい生存競争を勝ち抜くことができない。だから、多くの植物が生存する森の中には生えることができないのである。そこで、強い植物が力を発揮できないような場所を選んで生えている。その戦略は、できるだけ戦わないことと自分のニッチを探すことにあるようだ。
アスファルトの隙間、どぶの中、コンクリートの河原など、雑草は厳しい環境の中に生えることで種をつないでいる。雑草はけっして弱くはない。自分が一番になれるところを見つけて生きている。この世に存在する「すべての生き物がナンバー1であり、オンリー1なのである」(同書)。
こうした雑草の生き方に、家族で営む蒲焼店を重ねてみる。夫婦や親子が守っている店は、労働と生活が一体とまではいえないが、かなり近い。つまり、働くことが生きることであり、生きることが働くことなのである。だからそこには、客を安堵させる家庭的な人と味と情がある。
暮らす地域に根を張る。小回りがきいて流行に左右されない。勝ち続けなければ存続できないような多くの店を持つ大きな会社よりも、長くこつこつとつつましやかに営んでいる小さな店のほうが、たくましくてしなやかではないか。私はそうした店で幸せを見つけると、心が満たされるのである。