〈『日本養殖新聞』2024年10月15日号掲載〉
9月の初めに腸閉塞になってしまった。四日間、家で寝たきりで何も食べることができなかった。食べ物を口に入れることができるようになって、体の中に栄養がいきわたり、生きる力が戻ってくるのを感じた。
回復の途上にあって思ったことが二つあった。私たちは命を奪うことで生かされているということ。もう一つは、私たちの暮らしを守る医療や福祉、教育などの公共サービスが、そこで働く人びとの良心と犠牲によって支えられているということである。
そのうえで食の生産者について考えてみたい。生産者には、国民に食料を供給するという絶対的な役割がある。このことは、国民を飢えさせないという意味において、国家が果たさなければならない最も重い責務でもある。
生産者がどれくらい大切な存在か、現代の飽食の社会では十分に理解されていない。そのことは、三八%という世界の国々のなかでもかなり低い食料自給率(カロリーベース、令和5年度)にあらわれている。
都市の消費者は、自分で食べるものを何一つ作り出せない。与えられた物をただ消化するだけの家畜化された存在に見えてしまうときがある。今の日本の食は一見豊かに見えるが、もろくて貧しい状況にある。
現代において「むら」の生産者と「都市」の消費者は対等だろうかとふと思う。工業化された都市の一方的な論理によって、例えば海と共に歩んできたむらは、漁場を汚され、魚を買い叩かれ、人を吸い取られてきた。漁業の近代化とは、漁村の循環する多様な文化を破壊し、自治を収奪する歴史ではなかったか。
「進歩だという言葉を、農業の外の人が農家の人に向かって言うときには、警戒しなければならないと思う」(守田志郎『小農はなぜ強いか』)。現場に立脚しない在京の政治家や学者、専門家と称する人たちによる上から目線の改革論が勇ましいが、私たちは生産者の声に誠実に耳を傾けてきただろうか。
私は生産者がもっと守られるべきだと思っている。漁業でいえば、危険の多い海や川、湖沼で漁をし、つくり育てるために日夜精魂を傾けている。資源を守り、環境の変化をいち早く伝えるとともに保全に努め、海難では救助にあたる。各地で生産者が行っているこれらの活動は、国民にきちんと理解され、正しい評価を受けなければならない。
私たちがこれからも生きていくためには、生産者が安心して働ける農山漁村が維持されなければならない。そのためには、都市とむらの関係をむすび直す。都市がむらにもっと歩み寄り、受け身な消費の立場から脱却を図らなければならない。そして、命をつなぐ食の大切さについてみんなで学び、何をするべきか主体的に考えていく必要がある。
都市とむらが交わる一つの取組として、学校教育などにおいて農漁業の体験を積極的に導入し、生産と消費が対流を深めていくことは有効ではないか。命からなる食べ物の尊さを知り、生きる力を身に付けて想像する力を養うために、できることはあると思う。