里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

【新美貴資の「めぐる。〈119〉」】想像の失われた社会で 生産者の努力を伝えたい

〈『日本養殖新聞』2022年5月25日号寄稿〉

これまでの価値観が崩れて、守られてきた伝統や美徳がどんどん壊されている。そして、その勢いはさらに加速度を増している。文明の発展は、人間を幸せにしてきたのだろうか。縄文時代のことを調べていると、当時の人びとは四季の産物を持続的に利用し、ギブ・アンド・ギブの精神でのんびりと暮らしていたようで、現代と比べてしまう。

倫理をわきまえているはずの政治家、役人、企業家、教育者などによる不正、改ざん、隠蔽が連日のように報じられている。水産業界でも、産地偽装や窃盗などの悪質な犯罪が絶えない。なぜなのだろう。

私の身の回りでも、残念に思うことが増えた。路上のあちこちに捨てられるごみ。挨拶のない隣近所との無機質な関係。ささいなことで店員にクレームをつけて怒鳴る客。まわりに聞こえるなかでののしり合う夫婦。人間関係、孤立、病気、仕事のストレスなど、みんな何かしらの痛みを抱えながら生きている。先の見えない不安定な世相が、怒りと不信を増幅させている。

心を無くした慌ただしい世の中は、諦めと無関心な空気をつくり、自分の正義を押し通そうとする勝手な世界が横行している。蔓延した新自由主義が日本人にもたらしたものは、「恥」の忘却、もっと言えば「人間性」の喪失ではなかったか。

集合団地で過ごした昭和の子どもの時代と比べて、社会全体から他者を理解し思いやり許す、「想像」と「寛容」が失われているのは間違いなく、私も自らの言行を省みて自戒したい。

最近、SNSでつながっている漁師の深刻な嘆きを知り、胸が締めつけられた。魚の浜値が暴落し、かかる燃油や氷の代金を考えると先が見えないという。漁に出ても赤字、出なくても赤字。市場に出荷するだけでは、もう食べていけないと訴えていた。

ほぼ毎日、地元のスーパーの魚売り場を眺めているが、魚の値段が安くなったという実感は全くない。流通や小売りに対して、立場の弱い生産者がしわ寄せを受ける、長年にわたる構造的な問題があるのだと思う。

親交のある愛知県内の漁師と電話で時々話す。魚を捕っても生活していけないから、参入してくる若い者はいない。船に乗るのは年寄りばかりで、漁業はもうだめだと言う。この地区では、漁業者の高齢化や減少による水揚量の低減で、産地市場を維持していくことが難しく、漁協の経営も厳しいという。

山や川の破壊、沿岸の埋め立て、海洋プラスチック問題などで海の環境はどんどん悪化している。漁業者を支え、流通・加工・小売が一体となって共存を図らないと、このままでは共倒れになってしまう。漁業と海を守り、魚食文化を継承していくために、魚に関わる関係者が声をあげて、行動を起こすべきではないか。

生産者の努力が報われるような社会であってほしい。食卓に上がる魚は、誰かがどこかで捕ってくれたものである。漁業の再生に向けて、思いを共有できる浜の人たちとつながりたい。光を信じ、伝えることで応援していきたい。原点は浜にある。漁業と漁村は、国の宝なのである。

今月訪れた愛知県の篠島。シラス漁が盛んな離島には多くの漁船が並んでいた