里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

【新美貴資の「めぐる。(129)」】生命の実感を取り戻す 名古屋にもあった放生池

〈『日本養殖新聞』2023年3月15日号寄稿〉

人間は命を奪って生きている。毎日の食卓にならぶたくさんの食物。それらは、地球が育てた動物や植物である。私たちは、無数の命から生きる糧を得ている。

それなのに、食べる物の価値は軽んじられ、お金さえあれば何でも手に入るという幻想が世の中を覆っている。山も川も海も壊されてきた。輸入を増やす一方で生産者を切り捨てる国策により、食料自給率は低迷している。毎日膨大な量の食べ物が廃棄されている。経済の発展は大きな空洞をつくり、この国の基盤をむしばんでいる。

文明は進んだ。では、人々は幸せになったか。暴走する資本主義のおかしさに、多くの人が気づいているはずである。最近よく自問する。近代化とはなんだったのだろうかと。

「放生(ほうじょう)」という仏教の不殺生の教えからくる慈悲の行いがある。捕まえた生き物を放ち逃がす行為で、「放生会(ほうじょうえ)」はこれを儀式としたものである。

私は子供の頃に多くの虫や魚を殺した。釣り針を飲み込んだままのウナギを池に放ったことは、今も忘れられない。万物に神が宿ると考えた、原始宗教のアニミズムが現代人の心の奥底に残っているならば、どんな小さな生命であっても、あやめることに対して申し訳ない気持ちが生まれるはずである。

だから、ウナギを絶つことで生計を立てる人々は、死者であるウナギの霊に供物を捧げる「供養」を昔から行ってきた。その際に、生きたウナギを川や池へ放つ放生のようなことを行っているところもある。

供養や放生をする感性を昔の日本人は共有していたはずである。みなが自給自足し、生命を食物にかえて食べていたから。それが、経済が発展する過程で分業が進み、生産と消費が分離した結果、生命やそれを育む自然と人間のつながりが希薄になった。私たちは他の生き物を殺して生存する、食べるということの本質の部分が見えなくなり、実感できなくなってしまった。今日の食をめぐる問題の根底には、このような実態があると思う。

感謝するだけではいけない。若いうちから農業や漁業について体験し、生命の実感を取り戻すべきである。食育の実践と関係者の積極的な協力を切望する。

愛知県名古屋市千種区内に建つ日泰寺。この寺の一角に「殺生禁断 放生池 覺王山」と刻まれた石碑がある。池のない所になぜこのようなものがあるのか、以前から気になっていた。

調べてみたら、この石碑が建つそばに上姫ヶ池と呼ばれるため池がかつてあり、「亀魚を放生して諸人の減罪延命に資して」いたという(『仏舎利小考』水谷教章、覚王山日泰寺)。

コイが泳ぐ池は桜の名所として人々に親しまれ、花見の季節には茶屋もならんだという。1904年に寺が建立される前からあったこの池は、82年に埋め立てられる。

石碑のそばでたたずんでいると昔のにぎわいが聞こえてきそうだ。忘れてはいけない。小さいけれど大切な歴史がそこかしこに眠っている。