里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

【『日本養殖新聞』の〈めぐる。〉連載10年を迎えて】「ひと・もの・こと」をもっと伝えたい  フリーライター・新美貴資

〈『日本養殖新聞』2022年6月15日号寄稿〉

今回でこの連載が10年目を迎えました。いつも読んで下さっている購読者の皆さんに感謝し、お世話になっている編集部にもお礼を申し上げます。

私は、ライターになる前は、東京で水産業界紙記者として働いていました。紆余曲折を経て地元の名古屋に戻り、これまでの経験を生かしてなにかできることがあるのではないかと、東海地方の浜を歩き、取材を続けているなかで編集部より声をかけていただき、この連載が始まりました。

最初は、ウナギに関わるさまざまな場面で働き、生きている人びとのことを紹介したいと思い、海や川、市場や蒲焼店などいろいろな所を訪ねました。

それから「水産政策の改革」について、議論が明らかに不十分で内容に偏りがあり、水産業界への影響が懸念されることから、漁民の立場より問題を提起するようなことも書きました。

その後もウナギを起点にいろいろなことに興味を持ち、その都度現地を訪ね、資料を探して読み、思考や想像をめぐらせてきました。

ウナギと関わる「ひと・もの・こと」について、ローカルな視点からもっと伝えていければと思っています。

そして、自分のなかにある「面白い」「違和感」「知りたい」「伝えたい」を大切に、自己と誠実に向き合い、悩み考え、今後も書き続けていきたいです。

読者の方々に、何か響くようなものをお届けできたらうれしいです。これからも、よろしくお願いします。

【新美貴資の「めぐる。〈120〉」】大切な生命を弔う供養 人間と生きものを物語る

〈『日本養殖新聞』2022年6月15日号寄稿〉

世の中では、多くの「供養」が行われている。供養とは、「仏前や死者の霊前に有形・無形の物を供え、加護を願い冥福(めいふく)を祈るための祭事を行うこと」とある(新明解国語辞典〈第五版〉)。

ネットで「供養」を検索すると、墓地、葬儀、寺院などの情報がたくさん出てくる。供養の対象は、人間だけではない。動植物の他、包丁やはさみといった道具、人形や写真なども含まれている。また、家族の一員としてかわいがられた犬や猫などのペット供養は、近年ますます盛んなようである。

なぜ日本人は死者だけでなく、他の生きものや身近な物まで供養するのか。

ウナギを見てみると、生産、流通、飲食業者らによる供養が毎年各地で行われている。その地区の同業や関係者が集まったり、一つの蒲焼店だけで行ったり、開催する規模や形式はさまざまなようだ。

5年前に岐阜市中央卸売市場で行われた魚供養祭を見たことがある。荷捌き場に設けられた会場に、行政の担当者、卸や仲卸の従業員らが参列し、神主が祝詞を読み上げていた。そして、市内を流れる長良川に、ウナギとコイを放したことを覚えている。

このような魚の供養は、魚介類を取り扱う水産関係者が主催し、神事や仏事と放生(ほうじょう)を合わせて行うのが、多く見られる特徴のようである。

こうした供養には、多くの命を絶つことへの償いや生きものへの感謝の気持ちだけでなく、命を奪う行為によって自らの心に宿る恐れや後ろめたさといったものを、解き消したりやわらげたりする意味が含まれているのかもしれない。また、豊漁や商売繁盛といった人びとの願いも込められている。

日本人と関わりの深い魚の供養は、全国各地で行われている。田口理恵編著『魚のとむらい』(東海大学出版会)には、漁獲物の供養碑の数は全国で1300基を超えるとある。私が住んでいる愛知県にも多くあり、なかでも知多半島に集中して存在している。

名古屋市とその周辺で生きものの供養碑を調べてみたら、たくさん見つかった。このうち、「鳥獣魚貝類うなぎ供養塔」(豊田市・洞泉寺)、「動物慰霊碑」(名古屋市東山動植物園)、「畜魂碑」(名古屋市・八事霊園)を訪ね、手を合わせてきた。

一つひとつの供養碑に、人間と生きものの深い物語があるはずだ。自然があって私たちがある。そのことを忘れ、思い上がってはいけない。数多くある石碑は、後世に伝え残す戒めであり、食が乱れ、生命に対する意識が薄らいでしまった現代の人びとに対する、先人からの伝言が込められているのではないか。

供養を通して、あらゆる現象・事物に霊魂の存在を認めるアニミズム(精霊崇拝)や自然・死生観など、私たちの根底に眠っているものを見ることができる。供養は、その時々の世相の影響を受けながらも、大切な生命を弔う行いとして、いろいろな意味を抱合し変化しながら、これからも継承されていくのだろう。

洞泉寺にある「鳥獣魚貝類うなぎ供養塔」(2002年建立)。地元の飲食業者で組織する同業組合によって供養が行われているようだ

【新美貴資の「めぐる。〈119〉」】想像の失われた社会で 生産者の努力を伝えたい

〈『日本養殖新聞』2022年5月25日号寄稿〉

これまでの価値観が崩れて、守られてきた伝統や美徳がどんどん壊されている。そして、その勢いはさらに加速度を増している。文明の発展は、人間を幸せにしてきたのだろうか。縄文時代のことを調べていると、当時の人びとは四季の産物を持続的に利用し、ギブ・アンド・ギブの精神でのんびりと暮らしていたようで、現代と比べてしまう。

倫理をわきまえているはずの政治家、役人、企業家、教育者などによる不正、改ざん、隠蔽が連日のように報じられている。水産業界でも、産地偽装や窃盗などの悪質な犯罪が絶えない。なぜなのだろう。

私の身の回りでも、残念に思うことが増えた。路上のあちこちに捨てられるごみ。挨拶のない隣近所との無機質な関係。ささいなことで店員にクレームをつけて怒鳴る客。まわりに聞こえるなかでののしり合う夫婦。人間関係、孤立、病気、仕事のストレスなど、みんな何かしらの痛みを抱えながら生きている。先の見えない不安定な世相が、怒りと不信を増幅させている。

心を無くした慌ただしい世の中は、諦めと無関心な空気をつくり、自分の正義を押し通そうとする勝手な世界が横行している。蔓延した新自由主義が日本人にもたらしたものは、「恥」の忘却、もっと言えば「人間性」の喪失ではなかったか。

集合団地で過ごした昭和の子どもの時代と比べて、社会全体から他者を理解し思いやり許す、「想像」と「寛容」が失われているのは間違いなく、私も自らの言行を省みて自戒したい。

最近、SNSでつながっている漁師の深刻な嘆きを知り、胸が締めつけられた。魚の浜値が暴落し、かかる燃油や氷の代金を考えると先が見えないという。漁に出ても赤字、出なくても赤字。市場に出荷するだけでは、もう食べていけないと訴えていた。

ほぼ毎日、地元のスーパーの魚売り場を眺めているが、魚の値段が安くなったという実感は全くない。流通や小売りに対して、立場の弱い生産者がしわ寄せを受ける、長年にわたる構造的な問題があるのだと思う。

親交のある愛知県内の漁師と電話で時々話す。魚を捕っても生活していけないから、参入してくる若い者はいない。船に乗るのは年寄りばかりで、漁業はもうだめだと言う。この地区では、漁業者の高齢化や減少による水揚量の低減で、産地市場を維持していくことが難しく、漁協の経営も厳しいという。

山や川の破壊、沿岸の埋め立て、海洋プラスチック問題などで海の環境はどんどん悪化している。漁業者を支え、流通・加工・小売が一体となって共存を図らないと、このままでは共倒れになってしまう。漁業と海を守り、魚食文化を継承していくために、魚に関わる関係者が声をあげて、行動を起こすべきではないか。

生産者の努力が報われるような社会であってほしい。食卓に上がる魚は、誰かがどこかで捕ってくれたものである。漁業の再生に向けて、思いを共有できる浜の人たちとつながりたい。光を信じ、伝えることで応援していきたい。原点は浜にある。漁業と漁村は、国の宝なのである。

今月訪れた愛知県の篠島。シラス漁が盛んな離島には多くの漁船が並んでいた