里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

新美貴資の「めぐる。〈138〉」日々進化する技術 完全養殖で変わる世界

〈『日本養殖新聞』2023年12月15日号寄稿〉

今年の秋以降に発表されたニュースの中から気になったものを取り上げて、ウナギ業界のこれからについて少し考えてみたい。

そのニュースは、以下の2つのネット記事である。

①“サステナブルな餌料と養殖で生まれたサーモン 三重県多気町の未利用資源と微細藻類が餌料”、OVO[オーヴォ]、2023年9月22日、

https://ovo.kyodo.co.jp/ch/mame/a-1906199

②“養殖魚の餌を「昆虫の幼虫」に、魚粉から切り替えてコスト2割減…長崎大のスタートアップが開発”、読売新聞オンライン、2023年11月7日、https://www.yomiuri.co.jp/national/20231107-OYT1T50143/

現代の養殖業は、サステナブルな産業ではない。養殖用の餌料には、天然魚を原料とする魚粉が使われている。その魚粉の大部分は、輸入物である。この国の給餌型養殖は、外国産の魚粉がなければ成り立たない、脆弱で不安定な環境にある。

①は、ユーグレナ(東京)、三重県多気町、中部プラントサービス(名古屋市)の三者による地域産業開発コンソーシアム「もっとバイオ多気」(多気町)が、サステナブルな餌料と養殖によって「多気サステナブルサーモン」を開発したという記事である。

注目するのは、養殖に使う餌料に、微細藻類のユーグレナ(和名:ミドリムシ)をはじめ、副産物や規格外品として廃棄されていた町産の農産物などを配合している他、町に生息し、生態系への影響が懸念されているアメリカザリガニを使っている点である。

こうした取組により、餌料に含まれる魚粉の割合を減らすとともに、生産するサーモンの肉質の改良にもつなげている。

②は、長崎大の卒業生が経営する餌料製造会社のBooon(長崎市)が、同大の研究者と連携し、餌料に使われる魚粉を昆虫の幼虫で代替する事業に取り組んでいるという記事。

同社は、大量に飼育した甲虫の幼虫であるミルワームを粉末状にして餌料に配合し、養殖魚に与える計画を立てているという。

ミルワームは、大学生協で売れ残った弁当や野菜くず、食品会社から譲り受けた廃棄物などを乾燥して与え、育てている。次世代のたんぱく源として注目されている昆虫と食品廃棄物を活用し、環境負荷の軽減を図る新たな試みである。

餌料の国産化と低魚粉餌料の開発に向けたこのような研究を見てもわかるように、養殖の技術は日々着実に進化している。国は2050年までにニホンウナギの人工種苗比率を100%とする目標を掲げているが、何かの発見を契機に研究が一気に進展し、もっと早くに完全養殖の事業化が実現するのではないか。

サステナブルな養鰻が確立された時、それまでの考え方や常識は覆され、ウナギの業界は一変するだろう。それは、新たなビジネスチャンスを生むと同時に、ウナギを扱うあらゆる分野で、これまでにない競争が始まることを意味する。そのことを予期し、覚悟を持つ者が今どれだけいるか。完全養殖後の世界を見据えた戦いはすでに始まっている。

魚類養殖の餌に使われているドライペレット

時代が変わってもウナギの魅力は変わらない

新美貴資の「めぐる。〈137〉」 大鰻と龍の伝説 愛知県岡崎市の鰻池

〈『日本養殖新聞』2023年11月15日号寄稿〉

以前に愛知県に存在する鰻の付く地名について書いた。私が調べたところによると、県内には12ケ所の鰻の地名が残っている。その中の1つに、岡崎市羽根町の「鰻池」がある。それはかつてあった池の呼び名で、現在は土地の名前になっている。

この鰻池について少し調べてみたところ、古くからの言い伝えがあるらしい。興味がわいたので、現地を訪ねてみた。

愛知県のほぼ中央にある西三河地域の岡崎市。羽根町は、岡崎市の市街を占める西部に位置し、鰻池の地区はその町の東端にある。

羽根町には、岡崎市の動脈であるJRと愛知環状鉄道岡崎駅があり、大きなショッピングモールも建っている。閑静な町の中には新しい一戸建ての住宅が多く、地域全体が発展を遂げている印象を受けた。

この地に伝わる「雨ごい石」という昔話がある。

ずっとむかし、日照りが何日も続いた。村には川も池もない。百姓たちは集まって相談したが、よい考えが浮かばず困っていた。

その時、村で一番年寄りのおじいさんが言った。羽根の山の奥に池がある。その池にはきれいな水があるのだが、化け物がいる。これまで池に行った者で、帰ってきた者はいないという。

どうしても水を手に入れたい百姓たちは、鍬や鎌を持って池に行ってみることにした。池の近くまで来ると、うす暗い森の奥から突然おばあさんが現れた。

「わしはこの池のヌシじゃ。おまえたちは何しに来た」

おばあさんは、口が耳まで裂け、まんまるな目玉でにらみつけてくる。おばあさんが叫ぶと、あたりは真っ暗になり、大きな目玉だけが異様に光っている。

百姓たちは、目玉をめがけて必死で鍬や鎌を振り回した。すると突然大きな叫び声が聞こえて、あたりが明るくなってきた。見ると、そばには死んだ大鰻が横たわっていた。

その時、池の水が盛り上がり龍が現れる。

「わたしは竜宮の神様の使いである。大鰻がこの池に棲みついて困っていたのだ。助けてくれたお礼に雨を降らせてあげよう」

ひれ伏していた百姓たちが頭を上げると、龍の姿はなく、白い石が一つ落ちていた。それから雨が降ってきて、百姓たちは大いに喜んだ。そして、この白い石を羽根の神様に祭った。

この白い石は、雨ごい石と呼ばれ羽根の神社に祭られているそうだ。この池は鰻池、または雨ごい池と呼ばれている。この石を鰻池の水で洗って雨ごいすると、雨が降るといわれている。(参考:『おかざきのむかしばなし』岡崎市教育委員会発行)

羽根町の鰻池の地区内とその近くで、小さな貯水地のような所を2カ所見つけた。場所は町外れの丘陵地で、昔話にあった「羽根の山の奥」に違いない。駅の近くにある時計店で聞いてみたら、どちらも鰻池の跡ではないかという。白い石は、駅の西にある稲荷神社に祭られているそうだ。

「雨ごい石」の昔話にはさまざまな諸説があり、想像をかきたてられる。今後さらに調べていきたい。

雑草が生い茂っていた貯水地のような所。鰻池の跡か

新美貴資の「めぐる。〈136〉」 街のうなぎを集める 個性的な鰻屋の看板

〈『日本養殖新聞』2023年10月15日号寄稿〉

以前から「うなぎ」の文字が気になっていて、昨年くらいから少しずつ集めるようになった。現在は「街のうなぎ収集者」となり、カメラを持って名古屋市内を時々歩いている。

集めているのは、主に鰻屋の看板に描かれている文字である。「うなぎ」の魅惑的な字形に創意工夫を凝らした書体は、その場所だけで見られる唯一無二の存在で、受ける印象は季節、天候、時間帯によっても変わる。どの店のものも個性的で面白く、店主の信念、ウナギへの思い、時代の流行……そこにどんな意図が込められているのか、一つ一つの看板をじっと眺めていると想像の世界に没入してしまう。

残暑の厳しいこの日も、名古屋の都心に近いある所を「うなぎ」の文字を見ようと歩いていた。そのあたりは昨年に一度訪れており、目的の鰻屋は間もなく見えてくるはずであった。確かな予感を頼りに道を進むと、予想を裏切る光景が目の前にあらわれ言葉を失った。そこにあるはずの店が消えていたのである。

鰻屋のあった建物の正面は養生シートに覆われ、組まれた足場の上に立つ解体工によって作業が進められていた。大部分はすでに壊され、なくなっている。この店のウナギはどんな味だったのだろう。食べておかなかったことを悔やんだ。

一時の休業なのか廃業なのか、この鰻屋の実情はわからない。過去の住宅地図をさかのぼりわかる範囲で調べてみると、店は昭和30年代には営業していたことがわかった。地域に根を張りこつこつと営み、多くの客に自慢の蒲焼きを提供してきたのに違いない。

その数日後、新聞である記事を読んだ。それは、燃料費の高騰などを背景に60年以上の歴史に幕を下ろし、廃業する銭湯のことを書いていた。常連客の「よう頑張った」。店主の「正直ほっとしている面もある」。この両者の言葉に清々しさを感じ、前述の鰻屋とどこか重なって見えた。

また、私の住む町に、建物の老朽化を理由に土地の所有者から立ち退きを迫られている中華料理屋がある。夜に店の近くを通り、明かりがついているのを見るとほっとする。どんなものにも終わりはある。だからこそ人々は今あるものに愛着を覚え、離れがたい気持ちを抱くのだろう。

人生は出会いと別れ、始まりと終わりの連続であり、さまざまな感情が交錯する物語を生む。最近のこうした出来事を振り返って、人間、最期に残る拠り所は思い出ではないかと思った。過去の古き良き懐かしい記憶は、どんな人にとっても宝物であるはずだから。

私が「うなぎ」の文字を集めるのはなぜだろう。今ここに存在している鰻屋を、自分の中で何かの形にして残しておきたい。そういう気持ちは確かにある。

もっと言えば、ウナギに関わるものの探求を通して今ある自身の存在を確かめ、そうした活動の中に自分の生きる意義を見いだしたいのかもしれない。でも一番は、考えるよりも感じること。今夢中になれることを追い求め、こみ上げる衝動を自分の言葉や形にして伝え続けていきたい。

看板の明かりが心を温かくする

集めた「うなぎ」で作ってみた。上から読んでも左から読んでも「うなぎ」