里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

〈新美貴資の「めぐる。(38)」〉母なる川に生きる 長良川漁師 大橋亮一さん

〈『日本養殖新聞』2015年8月15日号掲載、2020年4月16日加筆修正〉

江戸と京都をむすんだ中山道の宿場のひとつ、太田宿。岐阜県の中濃地域、美濃加茂市に残る宿場町は、岐阜と東濃、飛騨地域をつなぐ要衝の「美濃太田駅」から歩いて約15分のところにある。本陣門や脇本陣などが続く街なみには、往来するたくさんの人びとでにぎわった宿場としての面影がいまも漂い、街道のそばを木曽川がゆったりと流れる。

この地に旅籠として現存する「小松屋」で先月、「川漁師が語る長良川の今昔」と題した講演会が開かれた。主催したのは、地元で活動する市民グループの「大八文庫」と「NPO法人宿木」。長良川漁師の大橋亮一さん(80)が講師として招かれ、2時間にわたり語った。

この連載で以前に一度、取材させてもらった亮一さんは、弟の修さんといまも仲よく漁を続ける。長良川下流域にひろがる同県の羽島市で、二代続く川漁師の家に生まれた大橋さんは、アユやサツキマス、ウナギやナマズモクズガニテナガエビ、コイなど、多くの魚を兄弟で捕り、専業川漁師として生きてきた。

かつては清流と呼ばれた長良川。大橋さんが恵みを享受してきた豊かな漁場は、高度経済成長期になると漁ができなくなるほど汚染が進む。護岸工事によって河原も姿を変えた。平成7年には、河口で堰の運用が開始され、流れの絶えた川は窒息し、連綿と繰り返されてきた生命の循環はとどめを刺される。

終戦後のときは、どんな魚でも売れました。売れん魚はなかったです」。農家には、捕れた魚を持っていくと、米と交換してくれたという。経済が伸展してからは、食生活ががらりと変わり、「海から川、川から海にいく魚しか売れんようになってまった」。アユ、サツキマス、ウナギ、モクズガニなど、河口堰の建設によって影響を受けたのは、こうした生き物たちだった。

なかでも、もっとも打撃を受けたのはウナギだと大橋さんは言う。河口堰ができて、シラスウナギの溯上は途絶えた。「いっぺんに一つも来なくなった。あれだけはゼロになりました」。それでも6月の入梅時になると、他の川から成長したウナギがまわり、上ってくるという。そして秋になると産卵のため海へと下る。このウナギを川漁師たちは「落ちウナギ」と呼ぶ。腹が黄色く脂がのって、とてもうまいのだそうだ。

長良川は母なる川やぞ」。そう大橋さんは父から教わった。木曽、長良、揖斐の木曽三川のなかで、アユがもっともたくさんの卵を産み、他の川に子どもたちを送りだしていたのが、長良川だった。昔は春の彼岸のころになると、海から遡上するアユの若魚が両岸とも切れ目なく続き、「学校の遠足やなあというくらい上ってきよった」。「弟と、長良川があったで漁師になったなあと。長良川がなかったら、漁師にはならへんかった」と振り返る。

たくさんの魚であふれた宝の川は、河口堰ができたことによって流速を失い、水質が悪化してヘドロが堆積する。大切な漁場は汚れ、大橋さんの生活も一変した。多くの恵みをもたらしてくれたアユも、この10年は漁獲がまったくないという。「川漁師はアユがおらなんだら生活できません。三代目ですけど、わたしらで終わりです」。「わたしんたが生きとるうちに、昔の川にしたりたい。自然に戻したってください」。大橋さんは参加者に何度も訴えた。

国土の発展や経済の成長という大義のもと、人間は天恵を与えてくれた自然を切り捨て、壊し続けてきた。「ウナギを絶滅危惧種にだれがした」。大橋さんの重い言葉が会場にひびく。ウナギ資源の減少の主な原因が、乱獲によるものなのか、環境の悪化や変動によるものなのか、よくはわからない。が、資源管理を強化するだけでは、ウナギは戻ってこないということは、はっきりしている。棲むことのできる河川や河口域の環境を取り戻すことが、欠かせないのだ。

ウナギをこれからも食べ続けるため、できること、やらなければいけないことはなにか。業界全体に、そして関係者一人ひとり、消費者にも問われている。ウナギの視点から、自然と人間の共生について考えてみたい。大橋さんが語る、長良川の今昔にも耳を傾けてほしい。ひとと自然が共存していた里川の暮らしから、我々が歩むべき未来の進路がきっと見えてくるはずだ。

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