里山川海を歩くライターの活動記録

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〈新美貴資の「めぐる。(37)」〉円熟のときを迎える包丁人生 うなぎ 日本料理「優月」店主 三宅 輝さん

〈『日本養殖新聞』2015年7月15日号掲載、2020年4月16日加筆修正〉

岐阜県の南東部にあって、西と南を愛知県と接する多治見市は、美濃焼の産地として知られる。尾張・名古屋のベッドタウンとして、近年発展を遂げた東濃地方の中核都市は、豊かな自然と水源に恵まれ、古墳時代から焼き物の文化で栄えてきた。いまも窯業は盛んで、その出荷額は県内でも有数。山間部には多くの窯元が軒を連ね、職人たちが手仕事で器を作る。市内には陶磁器の店がたくさん並び、美術館やギャラリー、陶芸を体験できる作陶施設などが点在する。新旧が入り混じった市域のなかに、古来より息づく美濃焼の文化は深く浸透し、地域の土台を形成する。

多治見は、夏場の暑さでも有名なところ。平成19年には、40.9度を記録し、国内観測史上最高気温を更新。「日本一暑い町」として、脚光を浴びる。このような風土のなか、体力仕事で汗をながす窯元の職人らが、精をつけようとウナギを好んで食べた。蒲焼き専門店の多い同市は、県内では関市とならぶ「ウナギの町」として、地元民はもちろん、市外からも伝統の味を求めて多くの人びとがやってくる。

そんな固有の食文化が根付くこの地で、昨年8月にオープンしたのが、ウナギと日本料理を提供する「優月」。JR「多治見駅」を降りたのは、しとしとと小雨が降り続く、梅雨の合間をぬった7月初めの頃。どんよりと重い鉛色をした曇った空のもと、駅の北口から飲食などの店舗や住宅が続く、整然と区画された静かな街のなかを進み、音羽町にある店を目指す。のんびり歩くこと約15分。特別な味と空間を予感させる、大きな白地の暖簾をくぐりドアを開けると、店主の三宅輝さん(34)がにっこり笑顔で迎えてくれた。

店のなかに入り、早速ウナギの調理を見せてもらう。「さばくときに中骨を軽く残すんです。焼き上がったときに、ぱりっとおいしく仕上がります」。三宅さんは、割いたウナギに6本の串をテンポよくうち、備長炭の炭火で丁寧に焼き上げていく。熱々のウナギを素手で触り、一匹ずつその感触を確かめながら素焼きにし、地元の料亭が閉店する際にゆずり受けたという、県産の上質なたまりを使い、明治22年から継ぎ足されてきた秘伝のたれに2回くぐらせ、照りのある香ばしい蒲焼きをじっくりと時間をかけて完成させる。

ウナギは「身がしっかりしている」という三河一色産を使う。「千差万別で一匹一匹が勝負」の身質は、「触ったりさばいたりすればわかる」。出来上がる姿を頭に思い描き、過去の経験より得た膨大な蓄積から答えを導く。割いたウナギの状態から、調理の過程を瞬時に判断し選択する。「割き」から「串うち」、「焼き」に至るまで、三宅さんの一つひとつの所作には意味があり、無駄がない。

陶磁器商を営む家に生まれ、多治見で育った三宅さん。小学校から高校までは、サッカーに熱中した。地元の高校を卒業し、器の勉強をしようと飛び込んだ関西の料亭で縁をもらい、日本料理界でその名をとどろかす大田忠道氏の門下に加わる。数千人もの弟子がいる師匠のもとで腕を磨き、独立したのは二一歳の頃。その後は、大田氏が主宰する、同氏のもとで修業した料理人や弟子、旅館・ホテルの料理長などが参加する「百万一心味(ひゃくまんいっしんみ)  天地(あまつち)の会」でチームを率い、全国のホテルや旅館など多くの施設で日本料理を指導し、経営を担った。

「料理の世界は厳しい。代わりはいくらでもいるというなかで育った。とにかく必死だった」。修業時代を振り返り、三宅さんは感慨を抱く。国内外を飛び回り、料理長として数多くの施設で新規事業の立ち上げや経営の建て直しを図ってきた。そんな数多の実績をもち、あらゆる食材に精通する三宅さんが、安住の地として故郷に戻りたどりついたのは、郷土の伝統食であるウナギだった。

店は、オープンしてから間もなく一年を迎える。「ウナギが苦手な人でも食べられるような料理をだしたい。子どもにも食べてほしい。子どもが喜んでくれるのが一番うれしい」。そう言って三宅さんは穏やかにほほ笑む。厳しい現場で修練をかさね、その技を昇華させてきた三宅さんの包丁人生。生まれ育ったウナギの町で、これから円熟のときを迎える。

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