里山川海を歩くライターの活動記録

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〈新美貴資の「めぐる。(80)」〉長良川に生きた 職漁師・大橋亮一さんを悼む

〈『日本養殖新聞』2019年2月15日号掲載、2020年4月18日加筆修正〉

職漁師・大橋亮一さん(岐阜県羽島市)が先月24日、病気のため亡くなった。83歳だった。豊かだった頃の長良川を知る、数少ない職漁師の一人だった。

昭和の戦後、高度経済成長期からの工場廃液による汚染、護岸工事による環境の悪化、1995年より運用が始まった河口堰による締め切りなど、人間の手による河川の改変と自然の消失に見舞われるなか、弟の修さんと魚を捕り続けた。

長良川語り部として、サツキマスやアユが捕れなくなった環境の深刻な現状をなげき、かつて清流と呼ばれた川の声を伝え続けた。河口堰の開門調査の実現に向けて、2012年から始まった愛知県の「長良川河口堰最適運用検討委員会」の委員として、長良川の復活を訴えた。

大橋さんは幼少の頃より、生家のそばを流れる長良川で毎日遊び、小学生になると木舟をこぎ始める。「終戦後のときは、どんな魚でも売れた」。漁場である長良川下流サツキマス、アユ、ウナギ、ナマズモクズガニなど、ありとあらゆる魚を捕った。三代続く専業の川漁師として、長良川からの豊かな恵みを授かり、家族を養い生活してきた。大橋さんにとって、長良川は「宝の川」だった。

長良川は母なる川」。父・定夫さんからはそう教わった。大橋さんは、木曽、長良、揖斐の木曽三川のなかで、アユがもっともたくさん卵を産み、子供たちを送り出すのが長良川であると語った。

そんなたくさんの命を育んできた清流が、河口堰の建設によって息の音を止められる。流速を失った川は、池のようによどんだ。悪化した水質によって、底にはヘドロが堆積し、漁場は壊され、捕れる魚が激減する。なかでも重要な漁獲対象であったアユは、まったく捕れなくなった。

最盛期には、同じ集落に50人近くいたという川漁師も、最後に残ったのは兄弟二人だけ。いつしか長良川から職漁師たちの姿は消え、大橋さんはこの川を代表する川漁師であった。

大橋さんは、多くの場で人びとに長良川のことを伝えてきた。子供たちの前では、兄弟と別れて海に降っても、生まれた川に帰ってくるサツキマスを「家族思いの魚」と紹介した。「勉強して東京のええ大学に行ったとて、必ず岐阜県に帰ってきて、地元をようしたってくれよ」。将来の担い手たちにこう語りかけた。

大橋さんには二、三度取材させてもらったことがある。また、各地で開かれた催しでも話を聞いた。「昔の川にしたってください」。長良川が発する悲痛の声を代弁するかのような言葉が、今も脳裏によみがえる。

豊かだった頃の長良川を知る人間は、もうほとんどいない。長良川の今昔を語ることができる生き字引であり、守り人でもあった。先月、岐阜市内の長良川を歩いた。大切な漁場であり、貴重な生き物たちの棲み家が、重機によって埋め立てられ、つぶされていた。河川改修という名の環境破壊が行われていた。

「川は一本。谷から海までが川やろ」「長良川はなんて書く。長く良い川」。2015年、「清流長良川の鮎」が世界農業遺産に認定される。岐阜県は、長良川を「世界に誇るべき里川のシステム」であるとアピールした。認定を受けたのは、郡上市から岐阜市までの上中流域で、河口堰のある下流域は対象に入っていない。

人間の勝手で自然を都合よくつくり変える。自然の一部であるはずなのに、いつしかそのことを忘れ、自然から離れるほど、人間は無知になり、また脆弱になるのではないか。「人間が豊かになれば、自然は破壊される」。長良川の盛衰を見守ってきた大橋さんの言葉をかみしめたい。

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