里山川海を歩くライターの活動記録

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〈新美貴資の「めぐる。(71)」〉名古屋にもあった豊かな海 かつての漁師町・下之一色を歩く

〈『日本養殖新聞』2018年5月15日号掲載、2020年4月17日加筆修正〉

下之一色(しものいっしき、現名古屋市中川区下之一色町)は、東西の二面を庄内川と新川に挟まれた逆三角形の形をした州の上にある。かつては伊勢湾でも有数の規模を誇る漁業の町であった。さまざまな漁法によって獲られた多くの魚介類が水揚げされ、名古屋の人びとの食を支えた。

下之一色でいつから漁業が始まったのかは、よくわかっていない。「名古屋の漁師町 下之一色」(市博物館、平成16年)のなかには「寛文村々覚書」(寛文13年)の記録から「17世紀後半には漁師町として成立していたことは確かである」と書かれている。昭和20年代には、1200人以上の漁師と400隻を超す漁船を抱える大きな町であった。

「愛知之水産」(大正11年)によると、当時の下之一色漁業組合で組合員が従事していた漁業の主要漁獲物としてカマス、ボラ、エビ、ハゼ、シラウオイワシなど多くの魚介類が記載されており、ウナギもある。また前述の「名古屋の漁師町 下之一色」では「昭和30年代までは、名古屋港内でも天然ものがたくさんとれた。夜行性で、昼間は石垣や穴の中にひそむというウナギ独特の性質を利用した、特徴的な漁法が行われた」と書かれている。かつては名古屋の海にそそぐ河川の河口域を中心に石倉漁、柴漬け漁、ウナギ掻き、ウナギ土管漁、ウナギ釣りサシナガノといった漁業が行われていた。

これらの資料にある記述などから、かなりの量のウナギが獲れていたことがわかる。多くの河川が流れ込む遠浅の伊勢湾奥には、たくさんのウナギが棲んでおり、自然の恵みを生かした多様な漁撈の文化があった。

 下之一色で漁師だった犬飼一夫さん(87歳)が見せてくれた昔の写真のなかには、獲ったウナギを活かしておく畜養場もあった。犬飼さんは名古屋の海で行われていた漁業について人びとに話したり、20以上あった漁法を手作りの模型で再現したりして、下之一色が漁師町だった頃の様子を伝え続けている。

「一色に行けばなんとかなった」と犬飼さんが話すくらい、さまざまな漁業やノリ、カキ養殖で多くの漁師が海に出ていた最盛期は活況をていし、町は魚市場を中心に魚介類を売り運ぶ行商、かまぼこや佃煮などの加工、造船や漁網、漁具の製造などの商いでにぎわい、人が集まり暮らしたことから商店街も栄えた。

昭和の戦後になると、工場排水などによる水質の悪化によって、漁獲高は徐々に減っていく。そしてこの地方をおそい大きな被害をもたらした伊勢湾台風の後、高潮防波堤の建設によって漁民は漁業権を放棄する。昭和39年に下之一色漁業協同組合は解散し、漁師町としての歴史を終えた。

 昔のにぎわいは消えたが、営業を続けている魚市場や銭湯、密集した民家と迷路のような細い路地、人びとから信仰を集めたいくつもの寺社や地蔵堂など、下之一色を歩くと漁師町だった頃の跡が今もあちこちに残っている。名古屋にも豊かな海があり、人びとが生き、暮らしていた。

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