〈『日本養殖新聞』2022年4月15日号寄稿〉
日本人はいつからウナギを食べていたのか。どんな漁法で捕まえ、どうやって食べていたのだろう。疑問と興味がふくらんでいくなかで、時代をさかのぼり「縄文」にたどり着いた。
『縄文の思想』(瀬川拓郎、講談社)によると、縄文文化は〈1万5000年まえから、先島諸島(沖縄県南西部の宮古・八重山両諸島)をのぞく南西諸島から北海道にかけて、日本列島で展開した狩猟・漁撈・採集の文化〉であるという。
『縄文文化が日本人の未来を拓く』(小林達雄、徳間書店)には、日本列島で約1万5000年前に始まった土器の製作、使用は、最初にして最大級の歴史的画期であったと書かれている。
縄文土器を作り使うことは、定住することができて初めて可能となる。遊動的から定住的な生活への変革は、狩猟・漁撈・採集の文化を高めただけでなく、食料の貯蔵や加工保存、さらに煮炊きする調理技術の発達を促し、人間の暮らしに革新をもたらしたはずである。
私たちは、共同社会の原形がかたまり文明の発展が始まるのは、稲作が本格化する弥生時代からという教育を受けてきた。しかし、この2冊を読んで、1万年以上続いた縄文にこそ、自然と共生してきた日本文化の源流があり、現代人の基底に生きていると確信した。
縄文人が暮らした遺跡が、愛知県名古屋市内にはいくつも残っている。そのうちの一つ、瑞穂区山下通の大曲輪貝塚(おおぐるわかいづか)を訪ねてみた。
貝塚とは、古代人が食べて捨てた貝殻などが地中にうずまってできた遺跡である。史跡として指定されている場所は、もっとも近い名古屋港の海から6キロくらい離れた市瑞穂公園陸上競技場の北西側にあった。あいにく史跡を含む一帯は工事中で、近くに寄って見ることはできなかった。当時は「縄文海進」によって、現在よりも海面が上昇し、このあたりまで海が広がっていたのだ。
図書館で大曲輪貝塚について調べてみた。ハイガイ、アカニシを主とする貝類が発見されているものの、魚類について記述されている資料を見つけることができず、ウナギを食べていたかどうかはわからなかった。
しかし、県内の縄文遺跡である伊津川貝塚(田原市)や堀内貝塚(安城市)からは、ウナギの骨が見つかっている。ウナギは、縄文時代に全国各地で食べられていたのだろう。
堀内貝塚では、24種の貝類をはじめ、魚類はウナギのほかフナ、コイ、エイ、サメ、フグ、スズキ、クロダイなど多くの種類の骨が出土し、シカやイノシシなどのほ乳類も発見されている。
縄文人の食生活は、けっして単調なものではなかった。四季のなかで育まれた豊かな自然の恵みを享受し、食材の旬や特徴を理解しながら漁撈や調理に工夫を凝らした、高度な食文化がすでに確立されていたのではないか。
日本の漁業、魚食のルーツは縄文時代にあったと考える。そのことを確かめたい。この時代のウナギの採捕や食べ方についても、詳しく調べてみようと思う。