〈『日本養殖新聞』2023年7月25日号寄稿〉
以前に、愛知県名古屋市中区にかつて存在した「蒲焼町」を取りあげた。蒲焼町は、起源や歴史について諸説あり、謎が多い。今回はさらに調べを進めて、考えてみたい。
名古屋の城下町で、碁盤の目のように区画された「碁盤割」と呼ばれる地域に含まれる蒲焼町は、現在の中区錦三丁目にあった。
『名古屋市史(地理編)』(大正5年)によると、〈蒲焼町は東本重町の南、廣小路筋の北、本町筋と大津町筋との間に位し、一丁目より四丁目まで有り、もとは各〻縦の町に分屬して、町名なく、蒲焼町筋と云ひしを、明治四年に獨立せしめて、蒲焼町と云ふ〉とある。
昭和35年の住宅地図から、この町は現在の本町通から大津通の間までの錦通をはさんだ南北の両側にあったことがわかる。
蒲焼町は、もとは通りの名であった。『なごやの町名』(名古屋市計画局)にも、〈江戸期の蒲焼町筋は御園町筋から大津町筋までの九町からなり、それぞれ南北筋の各町に属し、独立した町ではなく東西筋の名称であった〉と書かれてある。
「蒲焼」という地名がいつからついたのか詳しくはわからない。江戸後期に書かれた『尾張名陽図会』や『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』には記述があることから、この時代には定着していたのだろう。
町名の由来について『金鱗九十九之塵』では、以下のような説をあげている。〈名古屋に城が築かれる以前、天文19年、織田信長が、香倍焼町と呼ばれていたこの地に、遊郭を開いた。碁盤割の町割が終わった後、香倍焼町から蒲焼町と呼ばれるようになった。蒲焼町という町名は碁盤割の中にはないが、この辺り一帯を総称して蒲焼町と呼ぶようになった〉(引用:沢井鈴一『名古屋の町探索紀行』)。
この他にも『金鱗九十九之塵』では、桜の木の皮を焼いて細工する職人が多く住んでいたことから「かんばやき」町と称するようになった。名古屋城の築城を担当した西国大名が引き連れてきた家臣・人夫などが集まり、それらを目当てに茶屋が立ち並んだが、その中に蒲焼を商う店が多かったことに由来する説などが紹介されている。
蒲焼町について言えるのは、碁盤割のなかにあるこの場所が、昔も今も歓楽の中心であるということだ。同町があった錦三丁目は、「錦三(きんさん)」と呼ばれる名古屋最大の繁華街である。
話しは変わるが、江戸時代に「尾張名古屋の三名水」と呼ばれたうちの一つが「蒲焼町の風呂屋の井戸」で、『尾張名陽図会』に紹介されている(中日新聞2020年10月10日)。
時代は昭和になるが、作家城山三郎の生家が同町のそばにあったという(参考:西尾典祐『城山三郎伝』)。また、歌人青木穠子によって昭和39年に建てられた短歌会館は、同町に近い錦二丁目に残っている。
遊興の盛んだった蒲焼町の習俗は、この地方の飲食や芸能など多くの分野に影響を与えたことだろう。そして、そのわずかな痕跡の残り香を、私たちは今日も感じることができるのである。