里山川海を歩くライターの活動記録

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【新美貴資の「めぐる。〈107〉」】かつて「鰻廻間池」があった場所を訪ねる

〈『日本養殖新聞』2021年5月10日号寄稿〉

以前に紹介した名古屋市名東区にある「鰻廻間」(うなぎはざま。以下、異字体を新字体に改める)という地名を覚えているだろうか。この鰻廻間に、かつて「鰻廻間池」と呼ばれるため池があったことにも触れた。その後、調べていくうちにいろいろとわかってきたことがあるので書いてみたい。

小林元著の『猪高村物語』によると、この池は現在の猪高台(いだかだい)1丁目と猪子石(いのこいし)3丁目の境の東部にあり、猪子石村(現在の名東区千種区の一部)で2番目に大きな池だったという。

4月下旬、鰻廻間池があった場所に行ってみた。池があったと思われる所のすぐ近くには、ため池のある明徳公園があり、公園内の西側半分くらいが名東区猪高町の「大字猪子石字鰻廻間」として今も残っている。

鰻廻間池は、鰻廻間、猪高台1丁目、猪子石3丁目の境となる「明徳公園西」の交差点から西に広がっていた。現在は、戸建ての家が整然と並ぶ閑静な住宅地で、ここに池があったという痕跡は何も残っていない。

『猪高村物語』によると、鰻廻間池の水は、ここから北西に流れ下り、一本になった水路が社口川(しゃぐちがわ)となって、1キロほど先にある引山橋の脇から香流川(かなれがわ)に注いでいたという。

「社口」という地名は区内の一区画に残っているが、以前は鰻廻間の南にあり接していた。また、現在の鰻廻間から南西へ500メートルくらいの所に名東警察署があるがその西方、名古屋第二環状自動車道の東側あたりは江戸時代に「社口山」と呼ばれていたそうだ。

シャグチとは農業神のことでシャクシとも呼ばれ、社口山のあった周辺は、猪子石最奥の水源地としてシャグチが祭られていたのだと小林氏は考察している。

このことは、鰻廻間の地名の由来を考えるうえで重要な手がかりになるかもしれないので、記憶にとどめておきたい。

鰻廻間池は、昭和40年代から本格化した、宅地を造成する大規模な土地区画整理によって消滅する。過去の住宅地図などから、池は1967年頃まで存在していたことがわかった。ただ、63年の住宅地図では池の名前が「石根池」に変わり、以降もそうなっている。この時期に何があったのか。詳細は現時点ではわからないが、池のあったすぐ南東には「石が根」という地名が残っており、土地の区画整理によって池の名前が変更したのかもしれない。

このあたりの自然や文化、共同社会は急速な都市化のなかで失われ、歴史が作ってきた遺産や記憶はほとんどが消えてしまった。

それでも、昔の地形の痕跡は今も消えずにあり、地名も残っている。かつて猪高村には150を超えるため池があったという。学校や公園のある所は、昔はみんな池だったと古老から聞いたことがある。今ある暗渠(あんきょ)も、元は各地にあった池からの水路だったかもしれない。そうしたものから聞こえてくる一つひとつの声に、じっと耳をすませてみたい。

いつの時代より鰻廻間池があったのか。地名の謎についても次の回で考えてみようと思う。

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かつて鰻廻間池があったあたり。この道の先に「明徳公園西」の交差点があり公園の緑地が広がっている

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