里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

新美貴資の「めぐる。〈135〉」 レトロな鰻屋は町の遺産である

〈『日本養殖新聞』2023年9月15日号寄稿〉

自分の好きなウナギ。それは、味だけではないということが、最近になってわかってきた。その店が持っている雰囲気、人格ならぬ「店格」とでもいうのだろうか。そうしたところに惹かれ、また食べに行きたいと思うことが少なくない。

そうした店がまとうあらゆるものが魅力的で、五感を刺激する。それは、料理やそこで働く人だけではない。看板の「うなぎ」の書体であったり、引き戸を開けるときの音であったり、厚みのある湯飲みの肌触りであったり、どっしりとしたテーブルの艶やかな角の丸みであったり、いす席のところとは異なる小上がりの独立した島のような空間であったり。そうしたもののすべてに愛おしさを覚えるのである。

そして、愛着を感じるもっとも大きなもの。それは、その店の重ねてきた年輪の太さである。店を訪れたら自ずとわかる。営んできた歴史がただ長ければよいというものではない。その姿勢をどれだけ保ち、守り、続けてきたか。その部分が大きな意味を持つのである。

私の好む店は、華美に走らず、質実を心がけている。目立つくらいなら、控えることをよしとする気概を感じる。さらに、職人が作った良い物を選んで長く大切に使っている。そこには、人と人との情義や信頼を重んじる気持ちがある。道具や器は、扱う人間の心を表していると思う。

人通りが決して多くはない、都心から離れた小さな店は、有名店として脚光を浴びることはないが、地元の客で埋まり繁盛している。流行に左右されないシンプルなメニューからは、真面目で不器用で一本気な店の気性が透けて見える。

そういう店に、夕方のまだほとんど客のいない時間にふらっと一人で入る。席に着いて注文し、まわりをゆっくりと見渡す。部屋の上方に設置されたテレビが、球児たちの熱闘を映している。三世代の大家族、高齢の女性グループ、中年の夫婦らが続々と入店する。熱い茶をすすりながら料理を待つ間に、静かだった店の中が一気に回り始める。この瞬間がたまらなく好きだ。

私が通うある店は、けっしてきれいだとはいえない。創業は昭和の戦後から間もない頃だろうか。建物の外も中もかなり古い。でもそれが良い。近頃は若い客が増え、店主は驚いていた。若者にとって昭和は遠い昔であり、そうした時代にタイムスリップできるような場所は新鮮なのだろう。

茶店、中華料理屋、寿司屋、書店、玩具店、駄菓子屋…。昭和に生まれ育った世代にとり身近にあった、人の温もりを感じることのできる場所が地元から消えてしまった。

日本人は、なんでもすぐに壊して新しくつくり変えてしまう。古さはけっしてマイナスではない。そこには新しい価値を生む可能性が大いにある。

昭和の雰囲気が色濃く残る店で私はウナギを食べたい。世代を超えて作り、また食べられてきたレトロな鰻屋は、町の大切な文化遺産である。

のれんをくぐるとすばらしい世界が待っている

街の中で収集した「うなぎ」でコラージュのようなものを作ってみた