〈『日本養殖新聞』2022年10月15日号寄稿〉
あの場所で目にした光景が忘れられない。今も脳裏のどこかにずっとこびりついている。もう10年くらい前になるだろうか。その出会いは、突然にやってきた。
日は暮れていたのかもしれない。名古屋市西区にある円頓寺(えんどうじ)商店街の周辺を一人で歩いていた。あてもなくさまよっているうちに「円頓寺銀座街」と書かれてある小さなアーチ看板の前にたどり着いた。
そこは、商店街の一角に昔からある小さな飲み屋街のようで、外からのぞくと時空の隔絶した異界に見えた。この商店街は、昭和の雰囲気を濃厚に保っているのだが、さらにここだけがまわりからぽつんと取り残され、時が止まったままのようで懐かしさを覚えた。
酔客たちの笑い声や食器のたてる音。酒やタバコの匂い。料理の温もり。充満した人いきれであふれる、かつての賑わいが頭の中でよみがえった。
吸い寄せられるようにアーチ看板の下を通り抜けて、小路の先へと進んだ。両側には、わずかな間口の飲食店が窮屈そうにひしめき合っていた。そこにウナギ屋があった。生色のないくすんだ建物からは、商売を営んでいる様子がまったく感じられず、長く空いたままであることはすぐにわかった。店の表には、「うなぎ」と書かれた古びた袖看板とスタンド看板が残され、昔の様子を物語っていた。
あれから年月は流れた。あの店のことが気になって、その後も一度か二度、訪ねた記憶がある。そして、今年2月に再び足を運んだ。
異界の空気は一変していた。ウナギ屋のあった所は、まるで抜け落ちた歯のように、その所だけがきれいな更地になって、日の光を浴びていた。
この店の名前を記録しておかなかったことを悔やんだ。その後、過去の住宅地図をさかのぼり調べてみた。那古野1丁目にあったこのウナギ屋は「さわ兼」という。名古屋市内の図書館に現存する地図によって確認できた範囲になるが、店名が表記されているのは、1967年から。そして、2007年に消えていた。
どこかの老舗で長年修業を続けてきた店主が、ようやく独立して持つことのできた、自慢の城だったのかもしれないし、仲睦まじい夫婦が、つつましやかに経営していたのかもしれない。
「さわ兼」のウナギを多くの人が食べ、この場所で様々な人間模様が展開されたことは間違いない。
広小路、大須と並ぶ名古屋の盛り場の一つであった円頓寺商店街。60年代をピークに衰退し、長く活気を失う。しかし、近年は再生に向けた新たな取組が生まれ、変貌を遂げつつある。
「最近は新しい店がどんどん出来ている。観光客も増えた」。2月にこの場所を訪れた時、このあたりのことをよく知る高齢の男性から話を聞いた。「さわ兼」のことも尋ねてみたが、何も情報は得られなかった。
今月、また歩いた。今は色あせたこの銀座街に、かつては蒲焼きの匂いが漂っていた。昭和から平成にかけて、一つの時代を生きたウナギ屋が、確かにここに存在したのである。