里山川海を歩くライターの活動記録

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〈新美貴資の「めぐる。(58)」〉感謝を忘れず日々邁進 和食・うなぎ料理「田なかや」店主 小澤達雄さん

〈『日本養殖新聞』2017年4月15日号掲載、2020年4月17日加筆修正〉

岐阜県岐阜市にある歓楽街の「柳ケ瀬」を歩く。広いアーケードが南北にいくつも走り、道の両脇には和洋中華の飲食店のほか、洋品雑貨や時計、和菓子、生鮮食品などを売るたくさんの店がならぶ。往時の勢いは失われ、閉じたままのシャッターは目立ち、夜になると人影はまばらだが、それでも地元民の暮らしのよりどころ、地域の象徴としていまも岐阜の中心をなす。

一帯に残る昭和の匂いにひたりながら、盛り場を西へと進む。飲み屋が密集する「西柳ケ瀬」の一角に店をかまえるのが、和食・うなぎ料理の店「田なかや」だ。三代目の店主・小澤達雄さん(45)が、母の光代さんと営む同店は、ウナギを中心に魚介料理などを提供する。柳ケ瀬でもっとも古くからあるウナギ屋として、人びとに親しまれている。

小澤さんによると、店の創業は戦後の昭和25年頃になる。当時は、祖父の小澤銀次郎さんが寿司屋を経営していた。銀次郎さんは、名古屋市にあるウナギ料理の老舗「いば昇」の家の生まれ。名店でみがいた腕を、婿入りし働くようになった田なかやでふるう。味噌煮込みうどん、寿司と商いを変え、ほどなくウナギ屋を始めた。

夜に通りを歩くと「肩がぶつかるくらい」にぎわった最盛期には、半径500メートルに八軒ものウナギ屋がひしめき、競いあった。田なかやの隣には大きなキャバレーがあり、いつも出前の注文が入って繁盛した。店には祖父や母の他に、番頭やパートが何人もいたという。

店の二階が実家で、小澤さんは家族らが毎日働く姿を見て育つ。子どもの頃から店の仕事を手伝った。幼かったときに父を亡くすなか、家業を継ごうという意識は自然に芽生えた。「料理を作るのは嫌いじゃなかった」。高校を卒業すると、名古屋にある調理師専門学校に通う。それから柳ケ瀬にある割烹料理屋で、職人としての人生をスタートさせた。

祖父が病に倒れ、実家の店にもどったのは、修業を始めてから4年目のとき。誰にも教えていなかった、たれの作り方を伝授された。それからしばらくして、銀次郎さんは亡くなる。割きや串打ち、焼きの技は、祖父から学んだ熟練の職人がおり、見よう見まねで覚えた。

 30代になると「客もついて順風満帆。売り上げは順調で、結婚して子どもも生まれた」。そんななか、シラスウナギの不漁からウナギの仕入れ価格が急騰する。「地域密着の店だったので料理の価格を上げられない。ぎりぎりの経営で従業員も減らした。転職を悩み夜も眠れなかった」とつらかった当時を振り返る。

店を閉め、大切に守ってきたたれを捨てることも考えたが、祖父のことを思うとできなかった。力になり苦境を救ってくれたのは、多くの客や取引先の問屋、商店街の仲間、修業時代の先輩たちだった。「ウナギは重要な食文化。日本人の好きな要素が凝縮されている。辞めたらいけない」という同級生からの言葉も励みになった。

「まわりの皆さんに助けられました。ここでやってきてよかったです」。小澤さんは感謝の言葉を何度も口にする。

炭火でじっくりと焼かれたウナギは、表面がさくっとしていて、きりっとした濃い口のさっぱりとしたたれがしっかりとのる。口のなかに入れると、蒲焼きのこうばしい香りとウナギの旨みがあふれでる。

調理の技術について「まだ納得していない。自信はないです。それでもお客さんから注文があると、いまの焼き方で間違っていないんだと思いますね」と小澤さんはほほ笑む。伝統の味を受け継ぎ、守る職人がここにもいる。

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