里山川海を歩くライターの活動記録

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〈新美貴資の「めぐる。(88)」〉身近な魚だったウナギ 愛知県日進市の岩藤新池を歩く

〈『日本養殖新聞』2019年10月15日号掲載、2020年4月18日加筆修正〉

愛知県日進市の岩崎城歴史記念館で特別展「にっしんの歴史と動物」がこのほど開かれた。牛や馬、鳥、魚など人と動物に関わる歴史について、市に保存されている文章や絵図、道具など約50点が展示された。

濃尾平野の東に広がる尾張丘陵にある市内は、宅地の開発が進む1960年代頃まで多くの野山が残っていた。人びとは野鳥やウサギ、イナゴ、ハチノコなどを捕って食べ、牛や馬を農耕や運搬に利用していた。

明治から昭和にかけて養蚕や養鶏、養兎も盛んに営まれた。たくさんあったため池では、ウナギやコイ、フナ、モロコ、ドジョウなどが捕れ、秋祭りのご馳走にもなった。

特別展では、魚を捕るウゲ、四つ手網、ツキウゲ、ウナギタタキ、イカキの他、捕った魚を入れておくビクが展示されていた。ウナギタタキと呼ばれる漁具を初めて見た。解説によると、先端に取り付けられた針をウナギに叩きつけて捕獲したそうだ。

同記念館学芸員の村田信彦さんによると、これらの漁具のほとんどは、昭和の半ば以前まで使われていたものだという。

2015年発行の『日進市史民俗編』を読むと、農薬が使われる以前は、池や川、田にたくさんの魚がおり、人びとの貴重なタンパク源になっていた。

このあたりでは、魚を捕ることを「殺生(せっしょう)」と呼んだ。なかでも5、6年に一度、秋に田の水がいらなくなる頃、池の水を抜いて行われる魚捕りは「池殺生」や「池もみ」と言われ、他所から参加する人もいて、多くの池で入漁料を徴収し実施されていた。

1961年に愛知用水が通る以前の市域では、農業用水をため池に頼るところが多かった。池殺生は、池の泥さらいと消防団などの資金集めが大きな目的となっていた。こうした池には、消防団などが稚魚を放し、大きくしていたという。

「殺生が行われていたのは昭和30年代くらいまで。どの地域でもウナギが捕れ、食べられていた可能性がある」と村田さんは話す。

池だけでなく川や田、溝にもウナギはいた。『ふるさとの民具写真集』(1994年、日進町大字梅森区発行)には、昭和前期に市内を流れる天白川で、杭を打って網を張り、上流から下って来るウナギを捕る「ハリキリ網」という漁が行われていたことが紹介されている。

また糸を付けた針にドジョウをかけ、糸と結んだ竹を土手に差して川に流す「ナガノ」、溝をせき止め、水を搔き出して魚を捕まえる「かえどり」などの漁法によってウナギが捕られていた。(『村の四季』88年、香久山郷土史研究会発行より)。

同書には、捕ったウナギを蒲焼きにして食べたという記述がある。ウナギはご馳走であったが、どこにでもいる身近な魚であった。

市内の岩藤町にある岩藤新池を歩いた。深い緑地のなかに大きなため池があり、堤に水神が祭られている。毎年4月下旬、地元の住民により、池の安全と田畑の豊作を祈願する神事が行われているという(前掲『日進市史民俗編』より)。

都市化による環境の変化によって、ため池が利用される機会は大きく減った。水の恩恵を受ける人びとによって守られていたかつての里池には、自然と人の多様な共生の世界があった。

この日もウナギは見つからなかった。どこかのため池で水を抜くことがあれば、いつかその姿をこの目で確かめてみたいと思っている。


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