里山川海を歩くライターの活動記録

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藻場・干潟を守り豊かな海づくりを 海の博物館館長の石原義剛氏が講演

〈『水産週報』2011年12月1日号寄稿、2020年5月28日加筆修正〉

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四日市市で開かれ海の環境保全に取り組む市民団体などが参加した

三重県内で海の環境保全に取り組む市民団体などが参加して意見を交わす第2回「みえの海のフェスティバル」(海づくり会議みえ主催)が2011年8月20日、同県四日市市で開かれ、鳥羽市にある海の博物館の石原義剛館長が「伊勢湾は豊かな海だった」と題して基調講演を行った。

日本の漁業や漁村文化に詳しく、長年にわたり伊勢湾を見続けてきた石原氏は、現在の伊勢湾の環境について、高度成長期における工場からの汚れた排水や埋め立てによる藻場・干潟の消失などから悪化が始まったと指摘。豊かな海を取り戻すため藻場・干潟の回復を図るとともに、海への関心を深めることが大切だと訴えた。

多くの生き物が棲む伊勢湾は、日本でも有数の内湾の漁場であるが、環境の悪化は深刻であり、豊かな漁場の復活が漁業の再生において欠かせない要件となっている。以下、石原氏の発言要旨を記載する。

▼豊かだった伊勢湾

昔の伊勢湾は豊かだった。約130年前の明治16年に描かれた絵図「三重水産図解」を見ると、当時は漁業が盛んだったことがわかる。沖では打たせ網漁、沿岸では貝、川ではウナギを獲る姿が描かれ、前浜でたくさんのイワシを獲っている絵図もある。湾内までクジラが来ていたのも、餌となるイワシを追っていたものと考えられる。

大正時代の初めになると湾内では海水浴が始まり、市民が海辺で楽しむ姿が見られるようになる。さらに昭和の時代に入り戦後になると、潮干狩りが盛んになった。海岸には多くの野鳥が飛来し、海の小さな生き物を捕食していた。当時はまだ自然の海岸があり、たくさんの生き物が暮らしていた。こうした生き物の多くが、その後の伊勢湾の環境の変化によって消えてしまうのである。

▼海へ流され続けた工場からの廃水

伊勢湾の環境の変化は、いつから始まったのか。汚染が進んだのは昭和30年前後からだ。昭和20年代の半ばから日本は工業立国へと踏み出す。国が最初に手がけた産業の一つが製紙で、工場では河川の水が大量に使われ、汚水は処理されないまま海へと流され続けた。

昭和33年には、東京湾に注ぐ江戸川上流の本州製紙工場から真っ黒な廃水が流され、海は汚染する。魚介類は大きな被害を受け、漁民が工場へと乗り込む「黒い水事件」が起こる。

伊勢湾でも同じ年、木曽川の水が真っ黒に染まった。海は汚され、多くの魚介類が死滅し、漁業は大きな打撃を受ける。原因は上流で稼動する製紙工場などからの廃水で、漁場を守ろうと立ち上がった地元漁民が工場に乗り込む「黒い水事件」がここでも起きるのである。

その後、水質汚濁を防止する水質保全法、工場排水規制法が同年にできるが実効性はなく、海の環境悪化はさらに進んでしまう。

四日市では、昭和30年代から40年代にかけて、海沿いに造成されたコンビナートから大量の廃水が海へと流され、煤煙によって多くの人々が被害を受けた。

四日市の工場から出る廃水によって海は汚れ、周辺からは臭いのついた魚が網にかかるようになる。漁民はかつての豊かな海を取り戻そうと、企業を相手に抵抗を続けた。廃水による被害が拡大した昭和40年代の初めには、背の曲がったボラが発生する。有害な物質が海底に堆積し、餌を泥と一緒に摂る魚、特にボラが大きな影響を受けた。環境の悪化によってたくさんの生き物が傷つき、漁業者を苦しめていったのである。

▼深刻な貧酸素水塊

工業の発展によって国民の生活は豊かになったが、一方では全国各地で公害が起こり、多くの人々を苦しめた。その後、国の対策によって様々な法律もできるが、海の環境は改善されることなく、伊勢湾では赤潮の発生という大きな変化が起こる。

人々の生活が豊かになった結果、海への栄養塩の供給が過剰となり、植物プランクトンが異常発生して赤潮は起こる。海底に堆積する大量の植物プランクトンの死骸はバクテリアによって分解されるが、その過程で酸素を消費するため、海の中の酸素は欠乏してしまう。

夏場の伊勢湾中央部の海底は、生き物が棲むことのできない貧酸素の水塊が形成される。漁業の生産量は大きく減り、獲れる魚の種類も少なくなっているのが現状だ。

▼藻場・干潟は9割以上が消失

この50年で伊勢湾は大きく変わってしまったが、その1つが、藻場・干潟の減少である。最近になってようやく藻場・干潟の重要性について認識が広まり、各地で回復への取り組みが始まっている。私は県内の津市で生まれ育ったが、子供の頃に地元の海で泳ぐと、たくさんのアマモが足に巻きついて怖いぐらいだった。アマモ場にはハゼやキスがいて、すこし潜ると大きなハマグリを見つけることができた。豊かな海には、どこでも藻場・干潟が形成されていた。

今、伊勢湾の藻場・干潟はかつての90%以上が失われてしまったのではないか。伊勢湾のなかで残されている干潟は、県内では松阪市の松名瀬海岸が唯一である。数少ない藻場・干潟を守り、後世に残していくことが大切だ。

農業用地としての利用を目的に開発された愛知県との境にある広大な木曽川干拓地は、今も放置されたままだ。ここを再び浅海にもどす「海拓」を10年以上前から提唱している。干潟がよみがえれば様々な生き物が息を吹き返し、昔の多様な生態系が復活するだろう。伊勢湾を守るシンボルとして、この干拓地を海にもどすことを強く望んでいる。

▼進む子供の海離れ

豊かな海を取り戻そうと、各地では様々な活動が動き始めている一方で、多くの人々は海への関心を放棄してしまっている。

一番の問題は子供の海離れだ。海岸近くの学校なのになぜか立派なプールがあり、子供はそこでしか泳ぐことができない。こうしたことが海離れの現状をよく表している。親も海から離れ、近づかない暮らしを送ってしまっている。子供を海へ連れていって、家族でもっと親しんでもらいたい。そして豊かな海をつくり、守る活動にもぜひ加わってほしい。

【講演を聴いて】

以上が石原氏の講演の内容である。多くの藻場・干潟を失い環境の悪化が深刻な伊勢湾だが、豊かな海を取り戻そうとする動きが、漁業者や地域住民らの手によって各地で進んでいる。沿岸や流域の人々をさらに巻き込み、連携の輪がさらに広がることを期待したい。そのことが人々の「海離れ」からの脱却にもきっとつながると思う。

(新美貴資)

※記事の内容は、取材した当時のものになります。