〈『日本養殖新聞』2022年2月15日号寄稿〉
町はどんどん変わる。この数年で、昔から地元で営業し残っていたわずかな店が、次々と消えてしまった。
昭和の子どもの頃を思い出す。本、レコードレンタル、おもちゃ、駄菓子、薬、酒、文房具、電気、米、パン、寿司、うどん、中華料理、焼き鳥、喫茶……。じつにいろいろな個人の専門店があった。それらの多くが、今はスーパー、ドラッグストア、ファストフード、コンビニ、大手の学習塾や不動産屋などに替わり、生まれては消えていく。
町に昔から一軒あったウナギ店も、数年くらい前に畳んでしまった。老夫婦が経営していたようだが、いよいよ体がしんどくなり、つらくなって引退したのではないかと推察している。
店の建物はまだ残っていて、その前を通るたびに、もっと食べて味わっておけばよかったという気持ちがよみがえる。入口に貼ってある閉店の挨拶文には、創業は昭和47年とあった。だから、このウナギ店はここで半世紀近く商売をしてきたことになる。
幼い頃からずっと存在していた店がなくなるのは、自分の思い出が失われ、記憶が削り取られるようで切ない。でも、昨今のマスメディアが、後継者がいなくて廃業するのは残念で悲しいことであると決めつけるかのように、そうした部分ばかりを切り取って伝える姿勢には違和感を覚える。
形のあるものはいつか滅びて消える。命だってそうだ。始まりがあるなら、終わりや別れもある。だから、今この瞬間を大事にしたいと思えるし、感謝することができるのではないか。
これまで多くの漁師に会ってきたが、漁業の世界も高齢化が進んでいる。後継者のいない年老いた漁師は、いつ引退するのか、どこかの時点で決断を迫られる。そこにはいろいろな事情や感情が交錯する。一人ひとり、一つひとつの家族によって考え方や受けとめ方は異なるはずだ。
もちろん、辞めたくはないが、経済的または体力的な理由などから泣く泣く商売をあきらめる人もいるだろう。逆に、人生をかけてやり抜いて現役に終止符を打ち、余生をゆっくり迎えたいという人もいるはずである。
継承とは、自分の店や家業だけが対象なのではない。地域の中で根を張り営んできた、職人としての生き方や心がけ、技や味は、きっとだれかに伝わり、どこかで生かされていると信じたい。受け継ぐという言葉には、物質的なものだけでなく、精神的なものも含まれているのだから。
長く継承されてきたということは、それだけ多くの人たちが関わり生きてきたという証であり、重みとありがたみをかみしめたい。
このウナギ店の店主や家族は、自分の役目を十分に果たし、託された店の命を全うさせることができたのではないか。勝手な想像だが、客への長年にわたる感謝の思いがにじむ挨拶文から、私はそう感じ取った。
近いうちにまた店のあった建物を訪ねたい。長い間ありがとう、本当にお疲れ様でしたという気持ちをもう一度ちゃんと送ろうと思う。