里山川海を歩くライターの活動記録

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〈新美貴資の「めぐる。(18)」〉「豊橋うなぎ」のピーアールに努力 豊橋養鰻漁協組合長 福井孝男さん

〈『日本養殖新聞』2013年11月15日号掲載、2020年4月14日加筆修正〉

昨年12月に地域ブランドとして商標登録された愛知県の「豊橋うなぎ」。ウナギについての登録は、全国でも「一色産うなぎ」に次ぐ2件目となる。その名称は、安全で安心な豊橋の地下水で育てられたニホンウナギに限って、使用が認められる。豊橋養鰻漁協組合長の福井孝男さん(69)は、様々な機会を通して「健康に育ったウナギはおいしい」と、地元の特産のピーアールに力を入れる。

豊橋市は東西を結ぶ要所の一つ、東三河の玄関口にあたる。中心部にはシンボルとなる吉田城が鎮座し、城下町が持つ静穏で引き締まった雰囲気が全体をおおう。そんな市街地のなかを路面電車がのんびりと走り、ゆったりと進む時の流れに独特のテンポを刻む。

三河湾へとつながる市の西部・牟呂(むろ)町のあたりは干拓地が広がり、かつては地先でノリ養殖が盛んだったという。養鰻業も早くからこの地で興り、県内ではもっとも古い明治29年に始まったと言われている。最盛期には100軒を超える業者がこの地区を中心に養魚場を展開し、全国に轟く一大産地として多くのウナギを供給した。

「低い土地で地下水が豊富。豊橋は製糸の町で餌になるサナギが十分にあった」。福井さんは、この地で養鰻業が発展した経緯について語る。地下水が豊かで水温がウナギの成育に良かったり、池に転用できる土地が多かったり。東京と大阪の大市場がちょうど等距離にあって、交通網が整っていたことなども伸張に拍車をかけた。

その一方で、昭和28年の台風水害、32、33年ごろの安値による経営危機、44年から46年にかけて多発した越冬ウナギの大量死など、幾多の苦難にも見舞われた。地域の成長を支えた伝統産業は、多くの先人たちが味わった艱難辛苦を経て、いまも連綿と続く。

養殖方法が露地池からビニールハウスによる加温式へと移り、技術が格段に飛躍する過渡期に先代から事業を引継いだ福井さん。半世紀にわたり、養鰻家としてこの地でウナギと向き合ってきた。

「いいウナギをつくるポイントは、稚魚の育成にある」と話す福井さん。シラスウナギを池入れしたときは、「母親が産まれた子どもに添い寝をするように」ハウスに泊まりこんで見守るという。「一生懸命にウナギの姿を見ること。業に夢中になる。そうでなければウナギの状態はわからない」。

池入れから出荷まで、シーズン中は気を抜くことのできない緊張の日々が連続する。それでも「順調に育ってすばらしいウナギができたときは、がんばってよかったと思う。やれば結果がついてくるから面白い」と、自らの天職について言葉を弾ませる。長引くシラスの不漁によって、自らは池入れを断念せざるをえない状況が2年続くが、養鰻にかける思いは熱く深い。

組合では、一般の親子を対象にウナギをさばいて蒲焼きにし、鰻丼をつくって味わうイベントを主催。小学校で活きたウナギを子どもたちに見せ、その謎に満ちた生態を説明する学習会など、地元の行政が催す取り組みにも連携し、地域の産業である養鰻を伝道する。「豊橋の生産者はウナギを飼うのが上手でみんな精通している。おいしいウナギをつくる技術がある。その継承を図りながら、少しでも付加価値がつくようアピールしていきたい」。

「喜びも悩みもみんな一緒」。培ってきた自信と誇りを胸に、組合員とともに「豊橋うなぎ」の浸透に力をこめる。

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