里山川海を歩くライターの活動記録

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〈新美貴資の「めぐる。(21)」〉環境保全と情報発信に注力 馬瀬川上流漁協組合長 老田達男さん

〈『日本養殖新聞』2014年2月15日号掲載、2020年4月14日加筆修正〉

春の足音が少しずつ聞こえ始めた濃尾の平野部とはことなり、いまも真冬のまっただ中にあるのは、岐阜県の山野部にある飛騨地方。下呂市内の飛騨萩原駅から乗り合いバスに腰をおろし、曲がりくねった上り坂をぐんぐんと進む。街を離れ、人家の姿がみえなくなると、窓からの視界はみるみる変わり、雄大な山容の景色が一面に広がる。路肩には真っ白な雪がつもり、鉛色をした重たい空の切れ目からさす陽の光をうけて、まぶしく輝く。巨大な山腹をくりぬいた、まるで地底深くにもぐるかのような長い新日和田トンネルをぬけると、小さな別世界が山あいからあらわれる。

同市の中西部にある馬瀬地区は、切り立つ峰にかこまれた狭隘ななかにあり、北から南にくだる馬瀬川の両岸にそって、集落が細長く連なる。その独立した地形は、周囲から隔絶された隠れ里ともいえるつくりで、人魚の肉を食べたために不老不死となり、何百年も生きたという八百比丘尼(はっぴゃくびくに)や、源平のころの落ち武者伝説など数多の伝承があり、訪れるものを惹きつけてやまない魅力をひめる。

そんな馬瀬の南限に近い西村という集落で生まれ育ち、奥さんと長年にわたり暮らすのは老田達男さん(67)。馬瀬川上流漁協の組合長として、地元の清流を見守り、管理と保全に力をそそぐ。営んでいた自動車部品の製造工場を3年前にたたみ、現在は「目を開けてから眠るまで川を見ている」とやさしく微笑む。

昔はすべてが自給自足で、「ここで獲れたものだけを食べていた」。アユやイワナ、アマゴなどの魚は貴重なタンパク源だった。ウナギも多く棲息し、餌のアブラハヤをかけた釣り針を穴のなかに送りいれる「差し込み」や、河床に延縄でしかける「投げ込み」の漁法で「5月の麦の穂がでるころから食いつき始め、夏の土用の蒸す日にはよく獲れた」という。

豊かな恩恵を流域の人々にもたらす生活の拠り所であった清流だが、近年はその姿を変え、人間との間で成り立ってきた共生のバランスが大きく崩れようとしている。かつて盛んだった林業は衰退し、人の手が入らなくなった山林は荒廃がすすむ。新芽を食べ尽くしてしまうシカの食害が増えたこともあって、もろくなった山肌からは豪雨のたびに大量の土砂が流れ込み、生き物の成育にとって大切な川床を埋めてしまう。護岸工事によって、岸辺の複雑な起伏や多様な植生も失われ、たくさんの魚や水生昆虫にとって欠くことのできない産卵場や棲みかが奪われてしまった。

馬瀬川は飛騨川、木曽川に合流し、伊勢湾へとそそぐが、その間にはダムや堰がいくつも立ちはだかる。かつてはサツキマスも遡上したという海との往来はとざされ、息をとめられたかのような自然界からの悲鳴が、老田さんの語りを通して伝わってくる。道路にまく融雪剤や浄化槽に投入する消毒液の流入による水質の悪化、大量発生したカワウによる川魚の捕食など、河川環境をめぐる問題は山積みで、その根は深い。「昔にくらべて魚は減っている」という重い一言には、実感がこもる。

それでも馬瀬川が、いまも希少な清流であることは変わらない。両岸からせりだす山谷からは、60もの支流がくわわり、豊富な水源が郷土の生態系を保ち続ける。里山の伝統文化が色濃くのこるこの地への誇りを胸に、老田さんは馬瀬川環境保全と情報発信に取り組む。釣りや観光で訪れる人びとに、「川魚の食文化を広めていきたい」。今年7月には、漁協の主催で初となるアユ釣り大会の開催を計画しており、釣った魚をその場で調理し、食べることができる企画も盛り込む予定。「おいしい焼き方を研究して、本当の味を知ってもらいたい」と意欲をみせる。

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