里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

〈新美貴資の「めぐる。(32)」〉毎年が一年生 「豊橋うなぎ」を生産する松井養魚場 松井政久さん

〈『日本養殖新聞』2015年1月25日号掲載、2020年4月16日加筆修正〉

愛知県の東の玄関口にあたる豊橋市。全国有数の産出額を誇る農業をはじめ、化学や繊維、自動車などの工業が盛んなかつての宿場は、約38万人の人口を抱える東三河の要衝として、いまも発展を続ける。

多くの乗客が行き交う豊橋駅に降り立ったのは、正月の三箇日が明けて、街のなかが平静さを取り戻しはじめたころ。市の中心部にある駅から西方へと車を走らせ、三河湾に面した神野新田町をめざす。自動車の輸出入が活発な、臨海工業地帯を形成する三河港の後背にひろがる同町は、整然と区画された田畑がどこまでも続き、民家や小さな工場が点在する。

「神野新田」は、明治の時代から始まった干拓によって造成された農地で、台風や津波などの天災に見舞われるなか、幾多の困難を乗り越えて整地された。踏みしめる大地からは、希望を胸に灯して汗を流したであろう、先人たちの艱難辛苦の歩みが伝わってくるような感覚にとらわれる。

干拓事業とともに、浜名湖から飼育法が伝わりこの地で始まった養鰻は、当時盛んであった製糸業の副産物であるサナギが餌として使え、その入手が容易であったことからまたたく間にひろがり、生産規模を拡大。昭和の最盛期には、養殖業者が300軒を数えるまでになり、全国有数のウナギ産地として名をはせる。その技術は県内西尾市一色町、さらには四国、九州へと伝播し、日本の養鰻発展の黎明を担った。

この干拓地で、約40年にわたり養鰻を営んできた「松井養魚場」。父親とともに経営する三代目の松井政久さん(43)に、ウナギを養殖している池を見せてもらう。海からの冷たい浜風がびゅうびゅうと吹きつける外の世界から、ビニールハウスのなかに足を踏み入れると、湿った熱気に体がつつまれる。身を乗り出して池をのぞくと、餌場にはたくさんのウナギが密集し、身動きひとつせず体を休めていた。昨年春にシラスウナギを池入れし育てた成鰻は、そのほとんどを出荷し終えたが、いまも一割ほどが残り、飼育を行っているという。

まだ新しさの残るビニールハウスを、松井さんは感慨深くながめながら、過去に起こった悲しい出来事を振りかえる。大型の台風がこの地方を直撃し、養魚場が全壊したのは数年前のこと。「一番大変だった。ハウスが池のなかにぐしゃっとつぶれて。誰もが廃業だと思った。ウナギが死ななかったのが奇跡」。出荷前のウナギを大量に抱えて途方にくれるも、地元の豊橋養鰻漁協や仲間の組合員、隣県の静岡の関係者からも支援の手が差しのべられ、全量を無事に出荷。多くの人びとの助けによって、早期の再開を果たすことができた。このときの感謝の思いが、漁協の活動を盛りあげ、この地で生産される「豊橋うなぎ」のブランドとしての価値を上げたいという、松井さんの強い気持ちを後押しする。

平成24年地域団体商標に登録された豊橋うなぎ。豊川水系の湧きでる豊かな地下水によって、一帯では良質なウナギが育つ。池入れから出荷まで、生き物を相手に気を抜くことのできない日々が連続する養鰻の仕事。「プレッシャーはつねにある。ウナギの餌食いが悪いと、自分もご飯がのどを通らない。自分のこれまでの経験と判断が頼りで、毎年が一年生です」。

餌や燃油などにかかるコストは上昇を続け、とりまく環境は「不安材料ばかり」。経営はけっして楽でなく、苦労は絶えないが、「豊橋うなぎの知名度をあげるため、もっと宣伝していかないと」。そう語る言葉に力をこめる松井さんは、前向きな姿をくずさない。

減少がとまらない養鰻業の後継者を確保、増やしていくため、今年は漁協で青年部を組織し、組合の活動をさらに活発化させていきたいと、声を弾ませる。これからの大きな目標は、大人だけでなく、子どもが食べてもおいしいウナギをつくり育てること。「小さいころに食べた味は、きっと忘れない」。食文化の継承にも思いをよせ、生まれ育った豊橋の地から、養鰻の未来を切り開く。

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