里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

〈新美貴資の「めぐる。(50)」〉「四日市公害を忘れないために」市民の集い2016

〈『日本養殖新聞』2016年8月25日号掲載、2020年4月17日加筆修正〉

この夏も猛暑が続く。うら盆には多くの人びとが帰省し、精霊を迎え祖先の冥福を祈る。スポーツの祭典や行楽地がにぎわいをみせる一方、故郷では祭りや盆踊りが催され、列島の夏は今年もさまざまな物語を生んだ。

天候が不安定だったこの日の昼下がりはどしゃぶりの雨。さいわい雨脚は速く、しばらくすると雲の間から強い日差しが降りそそぐ。三重県四日市市の「磯津」。このいまは小さな漁師町を歩こうと「塩浜駅」を降りる。人気のない街のなかを抜け、鈴鹿川をまたぐ小倉橋を進み、流れにそってくだる。東の伊勢湾にそそぐ川の南は、しばらくのどかな田園が見られ、河口が近くなると民家の密集した村落があらわれる。

鈴鹿川をはさんだ北の対岸には、工業都市を代表する石油化学コンビナートが広がる。長い煙突が何本も起立し、白煙をもくもくとはく様子は、小倉橋をわたる前から確認できた。巨大な工場の群れが眼前に迫り、止むことのない重い稼働音があたりに響きわたる。

磯津の人びとを長く苦しめてきた「四日市ぜんそく」。昭和の高度成長期に被害をもたらした四大公害病の一つである。工場から吐き出された廃液とばい煙によって、海や大気は汚された。そしてたくさんの命、平和な暮らし、漁師たちの生業が奪われた。

原告が勝訴をえた四日市公害訴訟判決の日から44年を迎えた7月、同市内で「『四日市公害を忘れないために』市民の集い2016」が開かれた。四日市公害の認定患者で訴訟原告の野田之一さん(84)が、つめかけた市民らに豊かな海だった頃の磯津での漁と暮らし、公害で汚染されていった環境、くさい魚と漁民一揆ぜんそくの苦しみ、裁判での戦いなどについて語った。

野田さんの話を聞くのは二度目になる。磯津在住の昭和6年生まれ。公害訴訟の原告九人のうち唯一の生存者である。四日市公害の語り部として、これまで100を超える市内外の小学校で、子どもたちに伝える活動を行ってきた。

10年くらい前まで現役の漁師で魚を獲っていた。子どもの頃から「わんぱく大将」で、学校帰りに川をわたるとカレイやエビ、カニなどを足で踏んでつかみ、家族のご飯のおかずになるくらいたくさんの魚介が獲れたという。

昭和の大戦が終わる10代のときに父母を相次いで亡くす。戦中に船を失い網元で小僧として懸命に働き一人前の漁師に。その後しばらくは漁が盛んで、獲れた魚が高値で売れるはぶりのよい生活が続くも、国策によって塩浜に第一コンビナートが誘致され、石油化学や電力の工場が稼働するようになってからすべてが一変する。

「急激に悪くなった」。工場からの廃液によって海が汚され、獲れた魚が異臭を放つため市場で買い取ってもらえない。追い詰められた漁民が団結し「磯津漁民一揆」を起こしたのは昭和38年のこと。結局、企業や行政が対策を講じることはなく、「わずかな涙金で終わり」磯津の人びとは裏切られる。

ぜんそくを発症したのは33歳頃のときだった。発病してから約2年後の昭和42年、原告団の一人としてコンビナートの6社を相手に裁判を起こす。提訴に踏み切るまでには、周囲の強い反対があった。下の兄弟にも泣かれ「親が反対するよりもつらかった」。裁判が結審したのは5年後。入院していた野田さんは、生活のため日中は漁で働き、四大公害の他の裁判でも原告を応援するため富山、水俣、新潟とかけつけた。

四日市の海はきれいになったと思うか」という参加者からの問いに対し、野田さんは「海らしいところが残っとるところはないなあ。魚が見たらまだひどいと言うやろうなあ」と答える。

たくさんの犠牲のうえにある繁栄。この国は経済成長という幻想を追い求め、企業は理念より利益を優先する。コンビナートの企業による不正は、その後も続いている。「四日市の公害対策はまだ十分ではない」と発言した聴衆もいた。「あんたたちみたいに真剣に聞いてくれる人が多かったら、四日市はもっとよくなる」。野田さんの言葉をかみしめたい。もう二度とこのような悲劇を生まないために、私たちができることはきっとある。

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