里山川海を歩くライターの活動記録

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〈新美貴資の「めぐる。(85)」〉東海で生まれたうま口文化 名古屋城下の蒲焼町を歩く

〈『日本養殖新聞』2019年7月15日号掲載、2020年4月18日加筆修正〉

近年、急速な変貌を遂げている愛知県名古屋市。人口は2016年に230万人を突破した。名古屋駅の周辺「名駅エリア」の再開発はさらに進み、周辺の市町村の発展もめざましい。

変化の止まない名古屋において、金のしゃちほこで知られる名古屋城は、今も地域を象徴する存在だ。この城下にかつて「蒲焼町」という所があったことは、あまり知られていない。名古屋のウナギ食文化の源流が、ひょっとしたらここにあったのかもしれない。

城下町は、城の南方に大きく広がっていた。中区栄の一帯は、地下街が発達し、松坂屋三越などのデパートをはじめ多くの商業施設がある。城下町の面影はほとんど残っていないが、名駅エリアとともに名古屋の中核として、今も多くの人びとで賑わう。蒲焼町は栄と隣接する、名古屋最大の歓楽街として知られる同区錦にあった。

 「なごやの町名」(名古屋市計画局)によると、蒲焼町は1871(明治4)年に蒲焼町筋に新たに設立された。場所は、現在の錦三丁目になる。江戸期の蒲焼町筋は「独立した町ではなく東西筋の名称であった」。

同書には、蒲焼町の名前の由来について三つの説が書かれている。名古屋開府以前から遊里があったことにちなんで香倍(婆)焼町と呼んだ説、桜の木の皮を焼いて細工する職人が多く住んだことから「かんばやき」町と称するようになった説、名古屋城の築城を担当した西国大名が連れてきた家臣・人夫などが集まり、それらを目当てに茶屋が立ち並び、蒲焼きを商う店が多かったことに由来する説である。

いつから「蒲焼」の名前がついたのかはよくわかっていないが、江戸時代には蒲焼町筋が存在し、1965(昭和40)年前後まで町が残っていた。

蒲焼町があった所を歩いてみた。東西に走る「錦通」を挟んだ両側にかつて町があった。町の東端から西端までは400メートルくらいある。歩道には、蒲焼町と書かれたプレートが、地元の有志の手によっていくつも掲げられていた。

蒲焼町の東側は繁華街で、生活用品などを売る量販店、居酒屋、カラオケなどが営業し、行き交う人びとで混み合っている。東西の中ほどには立派なホテルが2軒、道路をまたいで向かい合うようにして建つ。町の西側へ進むと喧騒が薄れ、会社や銀行の建物が並ぶビジネス街の雰囲気が漂っていた。

錦通の蒲焼町のあった所を何度も往復したが、古くから続くウナギ屋はなく、当時の面影を残すようなものは見つからなかった。諦めて引き揚げようとした時、飲み物の自動販売機に描かれていた、三葉葵の紋所と徳川宗春のイラストが目に留まった。

御三家の一つ、尾張藩の七代目藩主・宗春(1696-1764)。緊縮を推し進める幕府を批判し、商業を重視した政策を取り入れる。領内は好景気にわいて東西から多くの人や物が入り、交わることで様々な文化が開花した。そこにはウナギも含まれていたのではないだろうか。

この地方には、たまりしょうゆの独特な食文化がある。発酵学者・小泉武夫氏の言葉を借りると、発酵食品の生産と消費が盛んな東海地方には、東の濃い口、西の薄口とも異なる「うま口文化」がある(『日本の食文化に歴史を読む』〈中日出版社〉)。

小泉氏によると、温暖な気候風土と山から流れる多くの伏流水が、この地方の豊かな食文化をつくったという。とても複雑で多様で不思議な食べ物の数々は、地域の豊かな恵みが結晶し、形になったものだと思う。

尾張・名古屋のたまりしょうゆを使ったうま口の蒲焼きは、宗春が活躍したこの時この地から発展したのではないか。関東風でも関西風でもない東海のウナギ食文化を探究してみたくなった。


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