里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

〈新美貴資の「めぐる。(11)」〉清流の盛衰を見守る 長良川漁師 大橋亮一さん 修さん

〈『日本養殖新聞』2013年4月15日号掲載、2020年4月14日加筆修正〉

かつて日本が誇る清流と呼ばれた長良川。美濃や飛騨の奥深い山々から生命の源泉となる流れがうまれ、いくつもの支流と相合しながら岐阜県を縦断し、伊勢湾へとそそぐ。この悠久の流れのなかで無限の生命が育まれ、生き物たちの連鎖の営みは絶えることなく繰り返されてきた。

長良川を知り尽くした、名人と呼ばれる兄弟漁師がいる。大橋亮一さん(78)、修さん(76)。県の南端にあって愛知と接する、長良と木曽の両川にはさまれた故郷・羽島市の水郷地帯で暮らし、いまも漁を続ける。くったくのない笑みを浮かべ、勢いよく口をひらく亮一さん。時おり相好をくずし、おだやかなテンポで言葉をつなぐ修さん。息のぴったりあった、がっしりとした体躯の兄弟は、長良川へのあふれる思いを鮮明な記憶にかさねながら語る。

幼少の頃から、生家のすぐそばを流れる長良川で毎日夢中になって遊んだという亮一さんと修さん。身近にあった清流は学びの宝庫で、自然の摂理を肌で感じながら成長した。魚捕りの達人であった父親に仕込まれ、木船をこぐようになったのは小学生になってから。以来、漁場となる長良川下流でありとあらゆる漁法を駆使して魚を捕まえ、3代続く専業漁師として名をはせてきた。亮一さんが「川の王者」だという、春になると海から遡上してくるサツキマスをはじめ、アユやウナギ、ナマズモクズガニからコイ、ウグイ、フナまで、四季の移ろいとともに漁法をかえ、一年を通して豊饒のめぐみを享受してきた。

なかでもウナギは、餌をつけた釣り針を竹竿に結び、川のなかに突き刺して仕掛ける「千本」や、柄の長い独特の漁具を使って川底にもぐっているものを引っかける「ウナギ掻き」。修さんが川の流れや起伏、魚の性質にあわせ、改良を重ねて編んだ筌(うけ)の他、はえ縄など、時期にあわせて行う漁法が数種あり、昔は一日で大きな魚籠(びく)が持ち上がらないほど捕れたという。亮一さんがいまも忘れられないのは、冬のウナギ捕りで目にした光景だ。泥のなかで冬眠するウナギが無数にいて、「蜂の巣ぐらい川底に穴をあけていた」。

そんな「宝の川」が一変するのは、河口に堰(せき)がつくられ、平成7年に運用が始まってから。せき止められ、湖のようになった下流の川底にはヘドロがたい積するようになり、環境はみるみる悪化。捕れる魚は減少の一途をたどり、なかでも川と海とを行き来するサツキマスやアユは激減した。

ウナギ資源の枯渇についても、修さんは「川が悪くなったのが第一の原因」と考える。河口堰によってシラスウナギの遡上がさえぎられたうえ、たび重なる改修によって両岸はコンクリートで固められてしまい、「生息するところがなくなっておらんようになった。人間が壊してまった」と語気を強める。

昭和の最盛期には同じ集落だけで50人近くいたという漁師も、下流域で残ったのは亮一さん、修さんの2人だけ。それでも漁に対する情熱は消えることなく、探究心は衰えない。失われた清流の面影に思いを寄せながらも、「川で生きとる限り、番人として川をようけしてやらな」と亮一さん。修さんも「長良川があってこそ大橋兄弟はおるんや。すこしでも恩をかえさないかん」とうなずく。清流・長良川の復活を訴えながら、これからも命あるかぎり兄弟で漁師の道を歩む。

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