里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

〈新美貴資の「めぐる。(25)」〉自然が一番の遊び場 料理旅館「清竜」・「杉ケ瀬ヤナ」を経営する 森尾清左衛門さん

〈『日本養殖新聞』2014年6月15日号掲載、2020年4月14日加筆修正〉

前回に続いて、訪れたのは「水の都」。岐阜県郡上市の中心をなす八幡町から、蛇行する長良川を縫うようにしてのぼり、北へと向かう。八幡をこえて隣接する大和町にはいると、まわりを囲む、萌えるような新緑はさらに濃密となり、紺碧の大空と濃緑の大地が視界をうめる。

この町に、自然を愛し、ともに遊ぶ名人がいると聞いて、一軒の宿をたずねる。長良川沿いにあって、森にかこまれたなかに構える料理旅館「清竜」。陽光が降り注ぐなか、宿と釣り堀を経営する森尾清左衛門さん(73)が、柔和な笑顔で迎えてくれた。

かつては県の水産試験場だったという、旅館の広い敷地のなかには、多くの造られた池があり、イワナやアマゴ、コイなどが悠々と泳ぐ。絶え間のない川のせせらぎと、時折ながれるウグイスの歌声に心身の力をゆっくりとぬき、つむぐ言葉に耳をかたむける。福井県の下穴馬(しもあなま)村(現大野市)で生まれ、林業に従事していた森尾さん。ダムが建設されるのを機に故郷をはなれ、郡上へと移り住んだのは23歳のころ。それまで日本海へとそそぐ河川ではウナギを見たことがなく、初めて目にしたときには「蛇のようで恐ろしかった」とにっこり笑う。

森尾さんは、旅館から3キロほど上流にあがったところで、40年ちかく梁(やな)を営む。昔は、地元にいくつもあったという梁だが、昭和34年に東海地方をおそった伊勢湾台風で、その多くが消失してしまう。復活させないかと声をかけられたのがきっかけで、森尾さんをはじめ、建設や鋳物業などで働くさまざまな職種の仲間が集まり協力。往時を知る先達に学びながら梁を打ち、その場で川魚料理を提供するようになって現在にいたる。

長良川で見られる独特な造りの、竹と材木で編んだ梁は、間口が約8メートルある。8月の初めから10月の終わりまで、シーズン中には下るアユを中心に、いろんな魚が捕れるという。なかでも地元が誇る「郡上鮎」の味と香りは格別で、「天然はうまい。長良川はアユが一番」と胸をはる。

ウナギも、昔は10月にはいると梁でよく捕れたが、「このごろは全然。黒いのも青いのも、一シーズンで数えるほど」。餌をつけた針を石のすき間に仕掛ける「差し込み」でも、捕れていないと聞く。この地に来たばかりの半世紀前には、「細いものから太いものまで、池や水路、田んぼにも、どこにでもいた」というその姿は、どこに消えてしまったのか。「河川改修でウナギの棲むところがなくなった。餌になる小魚はいくらでもおるのに、いつかない」。長年にわたる蓄積から確かな原因を言い当てる。

「梁は設置するのが大変。若いときは1週間でできたが、いまは2週間かかる」と話す森尾さんの表情は嬉々とし、なんでも遊びに置き換える童心のような無邪気さをもつ。「自分が楽しければ、どこでも楽しめる。自然が一番の遊び場」。四季を通して、川や海では魚を釣り、山に分け入っては獣を追い、猟をして生きる。自らが捕えた生命は大切にあつかい、旅館の客にふるまう。

「自然は人間が守っていくことが大事。昔はほっておけば山も元にもどった。いまはほっておいてもよくならん。人間が手を入れていかないと」。地元の郡上漁協が行う植樹の取り組みに参加し、地域で催される河原の清掃活動にも積極的に関わる。そんな森尾さんが守り、残していきたいのが、天然のアマゴだ。「いまならまだ間に合う」。わずかに残された貴重な生息域に思いをよせ、ともに暮らす山河と生き物たちへのあふれでる鍾愛の気持ちを言葉にこめる。

長年連れ添う奥さんと、息子夫婦の四人で仲よく生業を営む。7月になると、夜を徹して舞いあかす「郡上おどり」が八幡で始まる。多くの観光客が市に押し寄せる、一年でもっともにぎわう伝統の催しが、9月まで繰り広げられる。森尾さんの忙しい、うれしい季節がまたやってくる。

f:id:takashi213:20200226142008j:plain

f:id:takashi213:20200228151111j:plain