里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

〈新美貴資の「めぐる。(30)」〉川が一番ですべて 「矢田・庄内川をきれいにする会」会長 宮田照由さん

〈『日本養殖新聞』2014年11月15日号掲載、2020年4月15日加筆修正〉

岐阜県恵那市の夕立山に源流をもち、土岐や多治見、愛知県の瀬戸、名古屋市などの濃尾平野をぬけて、伊勢湾奥へとそそぐ庄内川。延長約96キロにおよぶ一級の都市河川は、流域に暮らす多くの人びとを抱えながらこんこんと流れる。昭和30年から40年代にかけての高度成長期には、上流で盛んな窯業からの汚水にくわえ、製紙工場からの廃水で、かつての清流は「見捨てられた川」と呼ばれるくらい環境が悪化する。そんな汚れきった故郷の川をもとにもどし、次代へ引き継ごうと、長年にわたり奮闘を続ける人たちの存在を知る。

ひんやりとした秋風を受け、マンションや民家が密集し、車がはげしく行き交う名古屋の北部をあるいて向かったのは、庄内川と支流の矢田川が合流する地点から近い、両川に挟まれた守山区の川西地区。「矢田・庄内川をきれいにする会」の会長・宮田照由さん(67)にうかがった。

地元で生まれ、泳いだり釣りをしたり、庄内川を学びの場にして育った宮田さん。少年になると、「学校にも行かず堤防で寝ていた」というくらい庄内川に通い、父や兄が捕ってきたウナギをぶつ切りにして焼いて食べた思い出をなつかしむ。「シラハエ(オイカワ)もナマズも食べた」という20年代までは、川辺で暮らす住民が庄内川に親しみ、恵みを享受していた時代。地元では漁協が組織され、アユの釣り大会も開かれていた。そんな豊かな環境が、30年代に入ってから激変する。多治見や瀬戸で発達した窯業からの大量の排水で川は汚れ、さらに40年代にはいると、名古屋と接する上流の春日井にある製紙工場から垂れ流される廃液によって、庄内川は悪臭をはなつアユの棲めない「白濁の川」となってしまう。

壊されていく地元の環境をまもり、次代の青少年にきれいな水と温かい社会を残そうと、初代会長の故丹羽秀義さんと事務局長の宮田さんら流域の住民が立ち上がり、会を結成したのは昭和49年のこと。翌年から「川の汚れは心の汚れ」を標語にした看板の設置活動を始め、毎年魚釣り大会を開く。他にも現地の住民と協働して源流域の環境保全に力をいれ、流域の植樹やビオトープ(生物の生息空間)づくりを行うなど、活動の輪を広げてきた。

平成21年からは「庄内川水系にアユ溯上100万匹大作戦」を実施し、アユの溯上や生息、食味調査を行う。「昔のアユはそりゃあうまかった」。矢田・庄内川で獲れるいまのアユを口にいれても、油くさい後味が残ってしまうという。会の発足から13年目に会長となり、住民・企業・行政の三位一体による運動をめざした丹羽さんの遺志をついで、すこしでも多くのひとに川の現状を知ってもらおうと走り続けてきた。

「水は汚した者がきれいにする」という原則のもと、たゆまぬ取り組みによってアユの棲める庄内川をとりもどすことはできたが、汚染源となる工場廃液や家庭排水、合成洗剤はいまも流れ、機能しない堰の魚道など、残る課題はすくなくない。会が主導する「庄内川水系川会議」では、2020年の目標に「庄内川の魚や貝がおいしく食べられる水質」「アユ、ウナギ、サツキマスなどが海と川と自由に行き来できる」ことなど五つを掲げる。

高度成長期、水も大気も汚れるのが当たり前という時代にうまれた都会での住民運動が、ゆらぐことのない信念と果敢な行動力で、次代にわたす財産を守りぬいてきた。「一生のうちのほとんどが庄内川。それが一番ですべて」。体力は以前より衰えたが、宮田さんは投網を草刈機にもち替え、いまも庄内川で生きる。

「川がきれいになるまで活動は終わらん」。脳梗塞、心臓病と二度の大病に見舞われながらも、こぼれるような笑顔を絶やさず、里川への熱情をともし、まっすぐな歩みをこれからも刻む。
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