里山川海を歩くライターの活動記録

水産のいろんな世界を歩き見て、ひとの営みや暮らしを伝えています

【新美貴資の『めぐる。〈113〉』】川から環境を考える 流域の中を歩いてみよう

〈『日本養殖新聞』2021年11月15日号寄稿〉

北海道で秋サケの定置網漁が不振であるという(『中日新聞』2021年11月4日)。記事では、道立総合研究機構さけます・内水水産試験場の研究者が原因について、気候変動の影響による海水温上昇や、道内各地の川に放流した稚魚がロシア沿岸で捕獲されている可能性を指摘している。

気候変動がさまざまな形となって表れ、私たちの生業や生活を脅かし始めている。経済を活発にしようとすればするほど、資源は濫用され、地球は汚れていく。壊れていく世界の環境を守るための足並みが、今も国家や世代間でそろわない。

メディアが盛んに報じるSDGs(持続可能な開発目標)だが、今のような資本主義下で打開策になるとは思えない。言葉の持つ雰囲気だけがひとり歩きし、行政や大企業が予算や利益を確保するため、都合よく利用しているようにしか見えないからだ。

国家による管理を排し、できる限り市場の自由な調節に問題をゆだねる新自由主義は、格差と貧困、分断と対立をもたらしただけでなく、環境破壊も加速させてきたのではないか。さらに、自分だけの利益を求める利己主義が蔓延した結果、人びとの無関心や無責任、諦めや孤立をもたらし、環境問題の解決をより困難なものにしていると感じる。

環境というとなんだか難しそうで、自分のこととして捉えにくい。二酸化炭素排出量とか侵略的な外来種とか海洋プラスチックとかの問題をニュースで聞くと、事態のあまりの大きさに一人ではなにもできない無力感に苛まれ、考えることを放棄してしまいそうになる。

そもそも「環境」とは何なのか。『広辞苑』には〈➀めぐり囲む区域。➁四囲の外界。周囲の事物。特に、人間または生物をとりまき、それと相互作用を及ぼし合うものとして見た外界。自然的環境と社会的環境とがある〉と書いてある。

私がイメージする環境とは、食べる物、着る物など暮らしの中にあるものとのつながり、家族や職場、地域などの人間関係や人も含めた生物とそれらを存在させるもの、そして歴史や文化、地球に存在する精神・物質的なものすべてが含まれるのではないかと思う。

『「流域地図」の作り方』(岸由二著、ちくまプリマ―新書)という本を読んで、自分が住む近くの川を源流から河口まで歩き、流域地図を作ってみたくなった。

自分の水系を探し、行政区分とは異なる川を基点にした流域の中を調べてみよう。雨が降ったらどう流れて川につながるのか。どんな所にも勾配はあって、高い所から低い所に水は流れる。身近な所にも尾根や谷、地表の水が二つ以上の水系に分かれる分水嶺があるはずで、地球でここだけの唯一の地形が存在するのだ。

大地の凸凹を実際に感じ、水の流れをたどることが、環境という難しくとられがちな言葉の印象を変えるきっかけになるかもしれない。

今まで平面的にしか見ていなかった町の地図が頭の中で立体化し、目にした景色が新たなものとして映る。自分が暮らす流域の中をどんどん歩いてみよう。いろいろな発見があるはずだ。

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